逃れられない仕組み

外側に見えている事象を嫌悪し、拒絶しているつもりでも、それを見てしまっている時点で自らの投影であることを自覚しなければ、切り離したつもりの現実のその本当の原因は実は自らのうちに潜んでおり、知らないうちにそれに自分自身が足を取られ、必死に努力し行動していたはずなのに、まさにその嫌悪し、拒絶したはずの現実と似ているか、あるいは、更に稚拙で醜悪な世界を創り出してしまうという仕組み。これは「想念はその源を離れない」という言い方もできるのかもしれない。

『 理想主義者が道を踏み外す時 』https://stand.fm/episodes/662a09939858289637a7fd6b 

アイタタタタタ

直近の投稿で紹介した、デヴィッドさんのリヴィングミラクルズコミュニティ(LM)をカルトとして糾弾、告発する「Finding Miracles」を読んでいて、自分の中に生じる興味深い心理があった。この本を読んでいて、デヴィッドさんが悪徳なカルト教祖なのか、あるいは、本の著者アンディさんが偏向した、困った人なのか、どちらの読み方もできてしまう、それが最初の読後感だった。ただ、ぼくが読んでいてもかなり違和感が生じるデヴィッドさん及びLMのメンバーの全財産寄付への誘導、半ば強要の描写にはかなりリアリティがあり、にもかかわらず、ぼくのなかにデヴィッドさんを擁護する心理が優勢となりがちで、その描写を事実として受け入れることになぜか抵抗が生じることにハッとして、自分のことながら少し背筋が寒くなる思いがしたのだった。これではまったく、教祖に心酔して事実を受け入れることもできなくなった、洗脳の完了した信者心理ではないか!

この自分の心理に気づいて、自分が大方抜け出したと思っていた忠誠・隷属のカルマはまだ残っていたのだと認めざるを得なかった。デヴィッドさんが悪徳教祖であれ、アンディさんが逆ギレ信者であれ、どちらが事実であろうと、「それ以前に」、ぼくの中には、この世界のどこかに非の打ちどころのない、完全な存在がいるだろうと信じてしまう心のバイアスがあり、それこそが問題なのだ。どこかに完全な存在がいると信じると同時に、必ず、自分自身はいまだ不完全な存在であることを前提としており、すると、その完全な存在に近づこうとし、そこから学び、献身し、同化しようとする衝動、動機が自動的に発生してしまうのだ。

罪の投影にはふたつの側面があり、外部、他者を罪のあるものとして断罪するときと、過剰なまでに美化・神聖視・絶対視するようなときだ。どちらも罪が温存されてしまう仕組みなのだが、後者のように、誰かを神聖視・絶対視しているとき、自分自身に潜在的に罪が温存されたと自覚しにくいのだ。無自覚のうちに、その罪を克服しようと、神聖視・絶対視した対象に傾倒していくことが、ほぼ自動的に起こる。その衝動・動機には当初、不快さが伴わず、むしろ、成長や充足、善であり肯定的な方向に向かっているという感覚が伴う。だから疑おうともしない。けれど、今回のように、デヴィッドさんに疑念の生じることが起こった時、無自覚に自分の中にデヴィッドさんを擁護するバイアスが生じるのは、そもそもぼくの中に、「この世界のどこかに神聖視・絶対視できる存在がいてもらわないと困る」というバイアスがあったからだ。それは言い換えれば、罪の温存衝動とも言える。全く無自覚なのだが。たまたま、デヴィッドさんについてのマイブームはぼくの中では終わってはいたけれど、それでも3年間も傾倒したティーチャーが実はありがちなカルト教祖だった可能性を認めたくない、そんな心理がぼくの内に存在したことにアイタタタタタという気持ちだ。

兄弟の中に無罪性を見る、そのことによって自らの無罪性も自覚される。なぜなら他者と自分の無罪性は一体のものだから。ところが、特定の誰かを神聖視して、無罪性の「ようなもの」を見ながら、自分もまた同時に無罪だとは見ていないなら、やっぱり、罪は温存されている。神聖さは自他同時にしか成立しない。