すでに在るもの

『 今日私のもとを訪れた人は、早く覚醒したい。早く答えに到達したい。その為に何か良い方法が在るか?と尋ねてきた。

そもそも、答えは自分が存在する事の中にすでに隠されている。 それが到達されるものであり、今、無いものであると思っている限り、その答えは明らかにはならない。なぜならば、無いものならば得なければならないからだ。そして、それが得られるものであるならば、そんなものには価値はない。唯一価値のあるものとは永遠不滅なるものであり、永遠不滅なるものならば今ここになければ永遠不滅とは言えないからだ。ゆえに真理とは得るもの。到達されるものではなく、今すでにここに在るものなのだ。 ゆえに到達しようとする限り、それは失敗に終わる。なぜならば到達するべきものなどもともと存在していないからである。 答えはすでに自分と共に在る。 私達が在る事と共に存在している。』

上記は、以前その著書を紹介した岩城和平さんのブログからの引用させてもらった(https://taranath.exblog.jp/937801/)。これまで本質的に同じ内容の言葉には何度も出会ってきているはずなのに、なぜかこの岩城さんの言い回しに「確かに、もっともだ、うんうん」と感じ入ってしまった。

何かを求めるとき、それはいまここにないから求めてしまう、あるいは、いまここを拒絶しているから別のものをどこかに求めてしまう。けれど、それが「神」だの「真理」だのとなると、もう絶対的にいまここにないことを無自覚に前提にしてしまっている。様々な霊的なレッスンもみな、そのいまここになくて、いつかどこかにはあるだろうと信じているそこへたどりつくための手段、方法だと認識して取り組んでしまうものではないか。でも、上の引用にある通り、永遠不滅の神や真理が存在するならば、それは定義上、いまここに存在しなければならない。ならば、いまここにすでに存在するが、それが存在すると感じられないものを感じられるよう、認識できるように霊的なレッスンは作られている、そう説明するのがまだ正確なのかもしれない。

にしても、「求める」とか「目指す」という言葉は、時空意識、「いつか、どこか、遠く」の感覚とセットに思えてしまう。いまここに存在するのに、いまここにあると感じられないなんて、それはぼくにはほとんど存在しないに等しい。でも、いまここに無いと思って取り組むのと、いまここにあるはずと信じて取り組むのとでは、気休め程度の違いはあるかもしれない。それに、いまここに無いと思うことと、ずっと抱えてきた欠落感とは親和性が高いのが厄介だ。いまここにあるはずと信じることは、欠落感を癒すのになにかしら有益な気がする。

ノンデュアリティ枠で知った人だったけれど、実際には愛を語る人という印象だったChris Celineさんという方がいる。あるインタビューで(正確なやり取りは覚えていないのだけれど)、「もうこの幻想世界に再び戻って(転生して)こようとは思いませんか?」という趣旨の質問をされた時のこと。Chrisさんは、「自分がどこにいようと、どこに置かれようと、愛であること、愛することです」と、そんなふうに答えられたと記憶している。ぼくは、ああ、こっちのほうが正しい答えな気がする、とすぐに感じた。なにと比べて「こっちのほうが」なのかというと、いわゆる「幻想から目覚める、幻想を脱出する、幻想を後にする」という言い回しに比べてだ。

世界に絶望し、人間として生きていることはつらいことばかりだ、この人生では負け組確定だ、この人生は酷いことばかり、うんざりすることばかり、気が重くなることばかりなのに、それでも生き続けなければいけないなんて耐えられない、そんなふうに思っていたら「幻想から目覚める、幻想を脱出する、幻想を後にする」方法に飛びつかないわけにはいかないだろう。実際、人間として生きていれば、そういうふうな想いに囚われてしまうことが当然ある。ゲイリー・レナードさんの言い回しには、そういう想いを肯定してくれるようなところもあったと思う。ぼくもそういう想いを抱えていたうちの一人だった。それでもやっぱりChrisさんの言っていることのほうが、より真実に近いと感じられた。その本質はおそらく「愛は、ここにある」という確信だと思う。いまここにある幻想から脱出して、いつかどこか、彼岸の「愛」にたどりついてようやく解放される、という言い回しより、「愛は、ここにある」という確信のほうが、より愛を放っていて、より愛に近い表現に思えたのだ。

世界は幻想だ、と言うだけでは片手落ちだ。愛だけが実在である、実在する愛の前では世界は幻想にすぎない、当然、愛は実在する以上、いまここにある、とまで言わなければならない。けれど、世界を眺めていてそうは思えないから、霊的なレッスンを実践することになる。どのみち肉体をひきずってこの世界を生ききらねばならないなら、こう捉えていたほうが、日々の生活と霊的な実践が断絶しない感じがする。