体験から学ぶ

先に挙げたカルト脱会者の手記で、女性の方が書かれた人生回顧もまた興味深かった。厳しい母親のいる家から早く出たくて、25歳で結婚。結婚した途端、熱烈にアプローチしてくれた夫は仕事にかまけきりになり、家のことには全くの無関心。子供も生まれ、結婚を期に知らない土地に越してきて知り合いはおらず孤立、閉塞。そんな折にポストに入っていたチラシ。宗教団体を匂わせなかったチラシだが、興味を持って門戸をたたく。まもなく入信し、それから以後23年間、家庭と宗教の二足のわらじで多忙な日々。辛いできごとが重なるも、宗教が自分の救いになっていないことに疑問、違和感を感じ、それが限界に達した頃、ある出来事をきっかけに脱会を決意。

非常に素朴な言葉で綴られたこの短い人生回顧の手記は、根が宗教的な人へのわたしの偏見、軽蔑をかなりやわらげてくれた。素朴で生真面目な人が、一生懸命生きようとした時、そばにあった宗教団体。そこはすべてがすべて悪いものでもなく、孤立しがちな子育ての時期にも相談に乗ってくれる先輩ママがいたり、生きていく上で役にたった、よかったと思える教えや経験も得た場所だったという著者の回顧。その一生懸命な姿はどこか好感がもてるもので、組織の卑怯なマインドコントロールにつけこまれてしまった皮肉はあったとはいえ、それすらも自分の弱さ、恐れから、自分で決める責任を引き受けずに、盲目に言われるがまま従っていればほめてくれる、そういう居場所を必要としていた未熟な自分がいたからだという述懐。この手記全体からは、自分のたどってきた道、自分の歩んだ姿をまっすぐ受けとめる、正直で潔い、さわやかな印象が伝わってきた。

手記を書かれたお二方は、若い頃にカルト宗教にのめりこんで人生の長い時間を過ごされたけれど、たまたま居場所がカルトだったとはいえ、その生きる姿は尊いものに思えた。宗教にはまっていた人のことを、こんな敬意を含んだまなざしで見たことは、あまり記憶にない。いつも冷笑的に見ていたからだ。

更に手記のお二方が興味深いのは、カルトを脱会した後、真に宗教的と言っていいような境地に足を踏み入れていらっしゃることだった。皮肉といえば皮肉なことである。救いを求めて熱心にはげんでいた団体所属時にはそんな境地になれなかったのに、そこから脱退して自分の人生を省みつつ、ある日ふと、真に宗教的と言えるような合点にたどりつくのだから。しかし、それが「学び」というもののほんとうのあり方なのだろうと思う。わたしたちは、人生の長い時間をかけて、体験を通して、時に非常に痛い目に遭ったり、苦しみが限界に達したような時に、全く新しい次元の扉を開くことがある。その扉は、それまでの、未熟だったかもしれないけれど、真摯に、懸命に生きた日々があったからこそ開いた扉なのだと思う。実際に生きて体験して、どうしても越えられないかに思える壁にぶつかってみたりもしなければ、自分の「自我のかたち」だって、わかりっこないのだから。

蒼い本は、勧誘をしたりお布施をしたり儀式をしたりするような、形式的、組織的な宗教の本ではない。蒼い本のことを宗教ではないと説明する方もいるけれど、神を求めるという点では明らかに宗教書だ。マニュアルの精神療法第二章第二節「精神療法における宗教の位置」という一節では、形式的な宗教と真の宗教と分類して、蒼い本のことを真の宗教として自ら位置づけている。もちろんその「真の宗教」にも、蒼い本なりの定義が記されているわけだが。だから、蒼い本のことを宗教ではないというセリフには、いつも違和感を感じるのだ。根が宗教的な人を冷笑的に見ていた一方で、「宗教書」たる蒼い本にどっぷりのめりこんでいるわたしは、どこか分裂しているのだが。・・それはまたあらためて。

蒼い本の学びも、やはり赦しを通した実践の中で、つまり、自分の人生を投じた体験のなかで、試行錯誤しつつそこに書かれた真の意味が徐々に明かされていく、それが連続して積み重なって理解が深まっていく、そんな書物だと思う。たしかにJACIMさんのご尽力、解説、またその他の教師の方々の活動によって、よりわかりやすく、誤解のないような学びの環境は整備されてはいる。しかし、パッケージ化された教本、マニュアルを次から次へと飲み込んでいくだけでは、学べないこともきっとあると思う。言葉には言葉の役割範囲と、その限界のようなものがどうしてもついてまわるからだ。

わたしはこれまで蒼い本にそれなりの時間をかけてきて、今後も引き続き学んでいくつもりでいる。これからどんな体験が待ち受けているのか、どんな学びをしていくのか見当もつかない。学びというものの壮大な性質、ひとつの人生、あるいはもしかしたら数えきれない転生をめぐるなかで、やっともたらされる学び・気づきとなると、もはやあれこれジタバタしても仕方のないものだ。そのときどきでよかれと思うことに、ひとは身を投じるしかないのだから。

宗教自我

蒼い本みたいなハードコアな本にのめりこんでるくせに、わたしは根が宗教的な人間ではなかったと思う。神、天国、覚醒、悟りといったある種の「超越性」が、いつまで経ってもピンとこないのだ。聖霊というものを信頼するのにもものすごい抵抗があったし、祈りが意味のあるものだと感じられるまでかなり長い時間がかかった。目で見て手で触れられるものじゃないと、どうしても画に描いた餅にしか思えない。それはわたしが地に足ついてる人間だからというわけでなく、ひどく疑い深く臆病な人間だからだと思う。そういう人間は、いったん自分が直接的に鮮やかな体験や確信をもってしまうと、どどーっとのめりこんでしまう危うさもあって、そのせいで蒼い本とのつきあいが足かけ10年にもなってしまったところはある。けれどやっぱり、無意識のうちに着地点にしていたのは神や天国ではなく、あくまで現世、世俗だった。

前世とか輪廻の話に自分でも一定のリアリティを感じている一方で、「輪廻の輪から解脱したい」「もう転生を繰り返したくない」などという、抽象的な願望をもつ人たちが実在することを、奇異なものを見るような目で見ていた。転生も輪廻もあくまで役に立つ「お話」であっても、それをまるっきり事実とみなした上に、そこから卒業、解脱したいなんて、正直、そんな抽象的な願望、雲をつかむような話にしか思えなくて、遠巻きに見ているしかなかった。もともとわたしにとって蒼い本は、赦しを使ってストレスを解消したり、自分の恐れからくる強固でどうしても拭いがたい思考パターンをなんとか手放して、そこそこ意欲的に一生を過ごせていけたらいい、そのために役立てるツールでしかなかった。

ところが、根が最初から宗教的な人っているんだ、と認識を改めざるを得なくなった。認識を改める以前は、宗教的な人たちのことを頭が弱くて、心も弱い人で、現実逃避する口実や、自分の居場所を宗教組織に求めている哀れな人たちだと思ってた(失敬)。だって、神さまとか聖霊とか天使とかをいきなり鵜呑みにしちゃえる感性ってどうなのよ、って話で。脳内お花畑でしょ、それ。・・・と、わりと辛辣なことを思ってた。そのような辛辣な見方も、部分的には的を射ていると思える一方で、しかし、人生の目標とか自己実現の対象として、最初から神や解脱のような「超越性」を求めてしまう、そういう心根をもった人が一定数いるのだと、そう認識を改めるようになった。そのような人たちとわたし自身との間に、ある共通点を発見してしまったことも大きい。わたしは根が宗教的な人間ではなかったかもしれないが、恐れにつきあげられた「狂信性」は、密かに抱えている人間だった。ただ、その狂信性が向かう対象が違っただけだ。「神」という名の偶像に向かわず、人々の生存、生活を大きく左右する「組織」や「国家」という偶像、とりわけ組織・共同体維持のために正当化された「大義」というものに、わたしの狂信性は向かいがちなのだ。このブログに戦争ネタが多かったのもそのせいだ。

こんなふうに書くと、根が宗教的な人はすべからく狂信性を抱えているみたいに聞こえるかもしれない。真の宗教性というものはあるかもしれないが、まだわたしには確信がもてていない。そして、根が宗教的な人たちは、その自我の傾向ゆえに、真の宗教性と、偶像としての「神」「天国」を求めてしまう狂信性の狭間を、揺らぎながら生きている人たちだと思う。紙一重なのだ。

先日、Amazonのキンドルアンリミテッドというサービスを手違いで登録してしまった。仕方ないので1ヶ月だけ利用することにして、手短に読めそうな本はないかと物色してたところ、若いころにカルト宗教にのめりこんで10年、あるいは20年近くそこに所属していたが、最終的に脱会した経験を綴った手記を二つほど読ませてもらった。どちらも50ページもない本で、20分か30分くらいで読めてしまう短い本なのだが、とても興味深く読むことができた(その1その2)。

カルト宗教というと地下鉄に毒ガスをまいた集団が思い出されがちだが、カルト宗教組織はあれだけではないし、カルト宗教がすべて犯罪組織化して、反社会的・国家転覆的行動を企むわけではない。ただカルト宗教は組織運営の手法として、やはりマインドコントロールの方法論を密かに導入しているもので、人間の自己実現欲求や生き甲斐、ひとが居場所を求める気持ちを巧妙に利用し、宗教的な装いをまとった脅迫を陰に陽につきつけることで思考停止状態に陥れ、収奪、搾取し続けるのは共通している。

先に紹介した手記を著された男性の方のお話には、インターネット時代になって、自らが所属する組織への批判が掲示板などにあふれるようになったのでその対策をしろと命じられたことがあり、組織への批判を検証しているうちに、マインドコントロールだという批判があるのでそれに反論しようと、まずマインドコントロールの本を読んで研究し、いかに自分たちの組織がマインドコントロール「していないか」という反論を準備していたら、自分が若いころから組織によって施されていた教育はまさにマインドコントロールだったと気づいてしまい、それが脱会の機会になったという、幸運なんだか冗談なんだか、笑うに笑えない話が載せられていた。(つづく)

祝福の受容

赦しと祈りは、「祝福」の様相をより強く帯びてきた。罪と罪悪を取り消す力は、神の愛、祝福からやってくる。以前は、あからさまな恐れ、恥辱、痛み、不快さの原因たる罪と罪悪の解消に重心が置かれていたが、今は、取り消す力そのものである神の愛、祝福の受容に重心がある。取り消す力はつまり絶対的に赦す力、癒す力。その力が必ず赦してくれる、絶対に癒してくれる、そう信頼すること、帰依することがとてもたいせつに感じられるのだ。

『 あなたの聖性が世界の救済である。あなたは自らの聖性によって、世界があなたとひとつであることを世界に教えることになる。そして、それは、世界に向かって説教をしたり、何かを告げたりすることによってではなく、自らの聖性の中ではすべてが自分とともに祝福されているという、あなたの静かな認識を通してなされる。(奇跡講座 ワークブック編 P87)』

これはレッスン37「私の聖性が世界を祝福する」から引用した一節。結局のところ、罪の取り消しとは、愛の受容だ。罪が愛の拒絶、遮断、欠如によって生じているのだから、その罪の取り消しが愛の受容になるのは必然である。これはもう絶対赦せない!裁きと罰がふさわしい!という相手でも、やはり相手に見ている罪は自分の罪の投影なので、結局、自分が神の愛を受け入れることが罪の取り消しとなり、赦しとなる。つまり自分を赦している。

世界のすべての人が愛に値する存在だと見えるようになるまで、つまり祝福できるようになるまで、わたし自身に愛と祝福を受容する余地がある。ひとを愛し祝福することは、自分を愛し祝福すること、神からの愛と祝福を自分に受け容れること。

祝福するなかで感じるのは、自分と兄弟との「一体性」の認識が癒しとなる、という感覚だ。一体性はつまり愛なのだから、それが癒しとなるのはもはや同語反復の感も否めないが、自分と他人という分離が前提となった癒しではなく、自分と他人の一体性を意識することが癒しの土壌になる、つながりのなかで癒される、そんな感覚が増してきているのだ。

『 恐れが消え去り、今や私たちは思いにおいてひとつである。だから一なる、一なる、一なる創造主、一なる想念に捧げられた祭壇を前にしたこの場に、私たちは一なる神の子としてともに存在している。私たち全員が私たちの一なる自己の無垢性により一つに結ばれており、どの兄弟もこの自己の一部である。そうして私たちは、源であるから分離することなく、兄弟の誰からも離れることなく、至福の中に立ち、自らが受け取った通りに与える。私たちは神の名を口にする。そして内側を見るとき、自らが父の愛を反映し天国の清らかさに輝いているのを見る。
 今、私たちは祝福されており、だから今、私たちは世界を祝福する。私たちは自分が見たものを延長する。それをあらゆるところに見たいからである。私たちはすべての人の中に、それがの恩寵とともに輝くところを見たい。自分が見る何に対してもそれを与えずにおきたくはない。そしてこの神聖な光景を自分たちのものとして確保するために、見るものすべてにそれを差し出す。私たちがそれを見る場所で、それは私たちの祭壇に飾ることのできる百合の花の形で与え返され、そこが無垢性そのものの住む家となる。その無垢なる存在は私たちの内側に宿り、彼の聖性を私たちのものとして私たちに与えてくれる。(奇跡講座ワークブック編P423)』