世界の受容と生きる意志

今年も無事、仕事納め。冬季休暇が始まった。マイティさんは里帰りの電車に乗った。ぼくは部屋にひとり。ひとりになるとおもむろに文章を書き始めてしまう。マイティさんとのおしゃべりで解消されていた言葉が、ひとりになると自分の内に滞留するせいか、文章や独り言の音声ブログに出口を求めてしまうのだと思う。でもこういう過ごし方は好きだし、実際、長い時間そうやって過ごしていたものだ。

しばらく瞑想をして、このブログに書けるようなテーマ、トピックはあるかなと探ってみる。もはや奇講座縛りを自分に課してもいない。自分にとって切実なことだけをつきつめていきたいし、その際に有用であるなら奇跡講座でも何でも構わない。

そういえば、来年の誕生日にはぼくは50歳になってしまう。50歳て。ぜんぜん自分のことに思えない。年を取ったら勝手に人間が成長したり成熟したりするなんて嘘だよねと、身をもって証明する日々。せいぜい、中身を伴わないふてぶてしさが板につき、面の皮が着々と厚くなるくらいだ。「大人」がどっしり構えて見えたのはそのせいで、別にほんとに叡智や経験の蓄積によって内実を伴ってどっしりしていたかといえば疑わしい。でもみんなそれぞれ自分の人生をえっちらおっちらがんばるしかなくてがんばってる、それはたぶん間違いないのだろう。

年をとればとるだけ肉体の残り時間を意識せざるを得ない。特に何かを成し遂げようとした人生ではなかったけれど、自分にとって霊性、スピリチュアルってなんだったんだろうと思うことはある。以前は輝いて見えた、ある種の到達点としての「目覚め」や「悟り」は、いまとなっては霞んでしまい、自分の生きる指針になっているとは言い難い。ただ、いま現在の等身大の自分にとって切実に感じられることに正直でいたい、それは多分、一貫してると思うのだが。

死んだら終わり、そんな生に必死になる必要あるの?まして幻想とか自我の悪夢とか言ってるものに真面目に取り組む意味ってどこにあるの? そういう想いがいつも忍び込んできて、ぼくは慢性的な虚無感に囚われる。諸行無常と昔の偉い人が言ってるのなら、虚無感に沈み込んでしまうほうが正しいように思える。でも、日々続いてしまう生を虚無感駄々洩れで生きるのも、なんか違う気もしてしまう。ぼくの霊性の道はいつもこの虚無を背景にしていたし、この虚無を越える指針を探り続ける道でもあった。この虚無を抱えているかぎり、ぼくは淡々と続く日常現実を心のどこかで拒絶しながら、斜に構えて仕方なく取り組むような生き方しかできない。中途半端。でも、確かに無常ではある形の世界に、今更本気で価値をおいて取り組むこともできそうにない。虚無感は、世界の拒絶であり、生きる意志を阻喪させる。心のどこかで、ずどーんと生きる意志を打ち立て、バリバリ、ゴリゴリ、音をたてるかのように貪欲に生き切りたいとも思いながら、それでも、論理的に疑いようなく思える生の虚無を前に、生きる意志のアクセルを踏み込めないで躊躇し続けている、ずっとそんな気分を抱えていた気がする。逆に、生きる意志のアクセルを踏み込むとき、ぼくは世界を受容するのだろう。生きる意志は世界の受容を含むはずだ。

不滅のもの、価値の揺るがないものに信を置きながら、無常である形の世界を受容し、泳ぎ切る。観念的には、そんな解答をひねり出すことはできる。奇跡講座は、その不滅で価値の揺るがないものの可能性を提示してくれた。世界を受容しながら、世界じたいを志向しているわけではない生きる意志。ところで、その世界を受容する力は愛の一側面ではないのか?生きる意志が阻喪させられ続けていたのは、愛が欠けていたからではないのか?

・・もう少しでアクセルを躊躇なく踏み込めそうな感触があるのだが。