食っていかねば、生きていかねば。

罵倒するおじさんと心のなかで向き合うなかで、たくさんのことを気づいたり、学んだりしたと思う。それをいちいちひとつひとつ言葉にすることは無理だけど、仕事に慣れてきた3年目あたり、怒鳴り続けるおじさんは、「仕事」を絶対正義として掲げていて、そこにエネルギーを全振りしている、ぼくはそんなふうにおじさんのことを見るようになった。なんで全振りなのか。それはおじさんが自分の潜在的に抱える罪を克服するものとして「仕事」を用いているから。自分の罪を外側の世界に投影し、それへの攻撃と防御として仕事への全振りという態度が選ばれ、罵倒罵声もその正義の主張、あるいは強迫反復となる。そうぼくは解釈した。罪には無力感、劣等感、惨めさ、寂しさ、弱さ、恐れ、欠乏感、恥辱感などいろいろな側面があり、それがひどく重いと、ひとはかなり極端な人格、行動パターンを呈することがある。それらは罪のエネルギーの重さ、不快さを「見かけ上」解消するための投影行動となっている。ぼくの解釈が正しいかどうかなんてわからないし、大抵、解釈は一部正しくて、あとはだいたい見当はずれなものだ。ただ、この解釈をするとき、ぼくにはすこし思い当たることがあるのだ。

因果応報とか、与えたものが返ってくる、という話がある。それは前世で自分が人に対して行ったことが、今生で今度は自分が同じことをひとにされてしまう、というお話。ゲイリーさんも、何百年も前の人生で盗みを働いたせいで、今回の人生で講演で稼いだ結構な額のお金を盗られてしまったと、本に書いていた。ぼくはぼくで、今生では生きる意味の欠落感を罪の取り消し、赦しを通じて取り扱うことができたものの、赦しを知らなかった前世では、きっと壮大な正義を掲げて、罪を克服しようとしたのではないか、その過程で、自分より立場の弱い者をひたすらボロカスに怒鳴り倒したのではないか。いくつか前の転生のぼくなら、それをやりそうだなと、なぜかそう思えてしまうのだ。ぼくと罵倒するおじさんとがパーソナリティとして似ていたわけではないが、自分の中の狂信性についてはこのブログでも書いたことがあった。

もともとぼくは仕様として、生きる意味をもたらすかに見える理想やヴィジョンに向かう行動を、「自分から」踏み出すことはできない。罪、欠落感、力不足感の反動から生きる意味を求めるせいで、いくら壮大なヴィジョンを描いても、それを自分に実現できるとは思えないから、壮大なヴィジョン語り、それを実現できそうなカリスマに心酔してそれを託し、そのカリスマに忠誠を誓うことで、自分に生きる意味をもたらそうと企んでしまう。それがぼくのたどりがちな典型的なカルマ的ストーリーだとこのブログでも書いた。

でも、もともと行動に踏み出せない仕様なのに、忠誠を誓ってカリスマに従うような行動になぜ踏み出すのか。それはたぶん、どんな前世であっても、「食っていかなければならない、生きていかねばならなかった」からだと思う。ぼくを行動へと急き立て、強いるのは、食っていくため、生きていくための仕事だけ。でも、ただ食っていくために仕事することに納得できてはいない。そこに「生きる意味」が感じられないから。生きる意味を感じられるほど壮大なヴィジョンに身を投じられるならば、ぼくはようやく自分を駆り立てて行動に踏み出すことはできるが、その行動とはつまりカリスマに「従うこと」でしかない。行動は壮大で麗しいヴィジョンによって正当化されていても、それは自発的に選んで踏み出した行動ではなく、あくまでヴィジョンを実行できそうなカリスマに「指示、命令」されたものだ。一貫して、生きる意味の欠落感を補うため、つまり、罪によって駆り立てられているのは変わらない。そして、往々にして、その壮大で麗しいヴィジョンを帯びた仕事というのは「国を守るため、国を偉大にするための戦争」となる。食っていくため、生きていくために、生きる意味を感じられそうな仕事が「戦争」になりがちだったということだ。

けれど、もし食っていくために、生きていくために働かなくていいなら、かじれるすねがあるのなら、ぎりぎりまで働けない、仕事をする行動に踏み出せない。それがぼくの仕様で、それがぼくの今回の人生だったと思う。「仕事」に関しては、前世の影響なのか、ぼくは仕事をなぜか「命をかけて忠誠を誓わないとできないこと」だと強迫観念のように信じていて、だから慎重に選ぶ必要があるとも思っていた。そして実際には慎重すぎて何も選べなかったのだ。生きる意味を仕事に求めすぎてしまう仕様に重ねて、このような前世の強迫観念も、かじれるすねがあるならとことんかじり続けて、自発的に生きるため、食っていくための行動に踏み出せない理由だったと思う。仕事に関してこういった折り重なるカルマのハードルがないマイティさんは、ぼくの話を聞くといつも呆れていて、「仕事なんてもっと単純なことだって。ハロワに行くなんて、スーパーに買い物に行くのと変わらないよ」と、よく笑い飛ばされたものだ。でも、ぼくはといえば、初めてハロワの建物の前に行ったときは、心臓が突然バクバクし始めて、身体が硬直してしまい、そのまま引き返してしまったのだった。だって無意識のうちに「命を賭けて忠誠を誓わないといけない」と思ってるのだから(汗)。

あと1年半もすればぼくは50歳になってしまう。この年で、ぼくが労働に従事していた期間は10年間だけであり、それ以外は親のすねをかじっているか、働いた期間の貯金を食いつぶしているだけだった。そのことにはいまなお恥辱感、劣等感、罪悪感が消えておらず、なぜならぼくは潜在的に「働かざる者食うべからず」とまだ信じていて、更には「生きる力の無い者は生きる資格がなく、死ぬべき」とまで信じているからだと思う。生きる力の無い者は死ぬべき、という普段は自覚に登ることのない信念は、想像以上に強大で根深い。奇跡講座学習者でも、ほとんど働いたことのないまま人生の後半に突入している人、若いのに仕事してない・できない人を見かけたりする。そういうとき自分のなかにいまだ断罪感情や侮蔑感情が湧くのに気が付く。自分だって長いこと、働くこと、仕事に踏み出すことができなかったにも関わらずなおそうなのだから、結構複雑な気分になる。ひとに向けた刃は自動的に自分にも向いてしまう。このことの赦しは、罵声を浴びせてきたおじさんに向かい合った時間よりも、更に長い時間がかかりそうな気がする。

食っていくため、生きていくためという正義、規範は、つまり肉体の維持目的であり、それが生命・自分と同一視されているから、きっと自我の大きな砦のひとつなのだろう。生きる力のない者は死ぬべき、という更に攻撃的な信念に至っては、なぜそれを自分が抱えているのか、わかるようなわからないような感じだし、でも、それはものすごく根深いものなのも確かだ。