愛への挑戦

元農水次官がひきこもりの息子を殺すに至った事件。最終的に自分の息子を殺すことが避けられない宿命なんてものがあるのだろうかと、つい考えをめぐらせてしまう。息子を手にかけた父親は、官僚の鑑とまで言われたりする、職業上は非常に人望のあった人らしい。そんな人でも、息子を殺す立場に至ってしまう。あるいは、そんな人だからこそ、そういう状況を避けることができなかったのか。職業上では発揮された知性や洞察力、見識が、なぜか親子関係では機能しない厄介さ。官僚はめちゃくちゃ忙しいそうだから、若いときから家に帰って家族と過ごす時間は短かったろうし、必然的に子供への接触・影響力は母親に偏るだろう。殺された息子が恨んでいたのも母親のほうで、かなりあとまで父親に対しては敬意を抱いていたらしい。けれど家族を覆う価値観は、やはり父親も加担、影響しないわけがない。

ファミリーカルマという言葉で、家系に連綿と継承されてしまうカルマというものを考えて、ブログに書いたこともある。家族は、最初から愛がある場所ではなく、愛のなかった心にどれだけ愛を回復させることができるか、握りしめていた愛でないものをどれだけ手放す決断をできるか、その挑戦を一生かけて家族構成員が取り組む場所、共同プロジェクトに思える。これは「挑戦」であり「プロジェクト」だから、当然、うまくいかないことはある。正解がはっきりとあるわけでもない。でも、ひとはどれだけチャレンジできたか、どれだけ歩みを進めることができたか、薄々感じて、わかっているのではないかと思う。殺人という結果は痛ましいが、そこに至るまでの葛藤のなかにチャレンジがあり、挑戦があったはずで、それこそが人生の内容であり、目的だったと言えると思う。ひきこもることが間違いで、就職すれば解決という単純な話でもなく、やはり、家族のなかで起こるすったもんだの葛藤、各人の心の遍歴こそが、人生の内容であり、目的なのだと、そう信じたい。

とはいうものの、見識ある立派な人だと周囲の多くから評価される人物が息子を手にかける結末に至ってしまうほど、愛に向かう挑戦は厄介で、自分が信じてきた価値観、信念、築いてきた強みがみな裏目に出てしまう、逆効果になってしまうような難しさがあると思う。

父親が殺すケースもあれば、父親が殺されるケースもあった。学生時代、ぼくが法律を学んでいた頃、民事訴訟学で新しい学説を唱える学者がいた。その人の演習テキストで学んだこともあったので記憶に残ったのだが、その学者はのちに統合失調症を患っていたとされる息子に刺されて殺されてしまう。民事訴訟法とは紛争を解決する手続法の学問だが、親子間の紛争がそのような結果に至ってしまったことは、なんとも皮肉なことだと思った。官僚にしろ、学者にしろ、知性が高く、職業上の能力が高いとみなされる人が、親子間の紛争を最悪な結果にもちこんでしまうというのは、そうした能力の高さが、愛への挑戦に必ずしも寄与しない、場合によれば裏目に出ることも示唆しているように思える。

少し「愛」という言葉を不用意に使いすぎたかもしれない。奇跡講座における罪、罪悪、赦し、癒しとのかかわりで「愛」という言葉を使ったつもりだった。また、言及した元次官や学者の家族関係に何が起こっていたのか、第三者にはわかるはずもなく、ここで書いたことはあくまでぼくが普段から思っていることを、この事件の当事者に重ねてしまいやすかった、この事件の性質につい色々思いを巡らさずにはいられなかっただけだ。特に、殺さない選択肢はどの時点まで存在していたのか、殺されない選択肢はもともと存在していたのか、そんなことが気になって仕方なかった。