真実の偶像

デヴィッドさんのFB(フェイスブック)のページに、「ユタのリヴィングミラクルのコミュニティはメキシコに移転します」とさらっと書いていた。「え!?」。最初、意味がわからなかった。でも、どうも文字通り、移転するようである。7月に大きなイベントがあって、日本から参加された方もいらっしゃったので、あのユタのコミュニティをご存知の方も多いかもしれない。あの地はおそらく10年ぐらい、デヴィッドさんたちのメンバーが拠点をおいてきた場所で、その建物や敷地の管理や修繕なども、ボランティアが地道に積み上げて、現在のようになっている。そんな場所を引き払うにあたり、あまりにその情報のアナウンスは唐突で、そっけなかった。引越し直前に唐突にアナウンスされた印象だ。しらみつぶしにFBを見ているわけじゃないけれど、ざっくりとはいつも見てきたので、引越しのニュースがあったらおそらく気づいているはずだし、基本的に彼らは正直でオープンなので、コミュニティの活動を頻繁に写真付きでアップし、少し大きなイベントでもあるとFBページにいっせいに情報があふれるのが通例だった。それが今回の拠点移転の引越しに関しては、発表は唐突だし、メンバーも7月のイベントが終わると早々に世界各国に散らばってしまって、引越しのことは唯一フランシスさんがそれをにおわせる写真を1枚アップしたきりである。

最初、このニュースに接した時、わたしのなかに湧いたのは不信感であり、事実を追及したいという思いだった。彼らの従来の行動パターンからすれば、今回の引越しの扱いはあまりに唐突でそっけなく、不自然だ。次に湧いてきたのは、漠然とした喪失感と切なさに似たものだった。あきらかにわたしは動揺していた。そこに至ってようやく、自分に何が起こっているのかがわかってきた。デヴィッドさんの歩んできた道と、あのユタのコミュニティに集まる人たちは、わたしにとって真実の象徴みたいなものだった。これまでデヴィッドさんのYouTube動画を相当たくさん見てきて、頻繁にあのユタのコミュニティの建物、屋内、敷地の風景が動画に映り込み、デヴィッドさんが教える内容とセットでわたしの記憶に収まっていた。そのため、あのコミュニティはわたしにとって真実の象徴みたいな意味合いをもってしまっていたようだった。2年ほど前は、あのコミュニティを訪れていいかどうか何度も聖霊に尋ねたことがあったのだが、その都度、「いまは行く必要はない」という回答が返ってきて、行かずにいた。行くタイミングが来たら知らされるだろうと思っていたら、ユタのコミュニティは移転してしまうのだという(笑)。

象徴は幻想に属するもので、言い方を変えれば偶像である。偶像は、やってきては過ぎ去っていく。偶像は移り変わるのが定め。偶像を通じて、わたしたちは真実を模索し、真実に触れよう、つながろうとする。そういう意味では、蒼い本じたいもまた偶像である。偶像を通じて真実に触れるきっかけが与えられたとしても、偶像じたいが真実なのではない。偶像そのものが真実だと思い込む時、自分の外側、自分とは時間的にも空間的にも離れたところに真実があるような錯覚に陥り、いまここにいる自分のなかに真実があることを失念する。その失念が罪を正当化する、あるいはその失念じたいが罪として機能し、分離の幻想を実在視させてしまう。コミュニティの唐突な移転によって生じたわたしの動揺、不信感、喪失感、切なさは、偶像を不意にはぎとられて、隠れていた罪が急にひきずりだされたせいで感じることになったものだ。コミュニティの移転については、その理由の追及ではなく、いつもどおりの赦しの手続きがわたしには必要なようだった。

引越しのニュースを知ったのが8月2日で、自分のなかで整理がついてきた昨日、ふと、それでもメールを送ってみようと思いついた。メールは以前、蒼い本に関連しない件で、ごく事務的なメールを一度送ったことがあるだけだった。今回の「真実の偶像」についての赦しは一区切りつきそうだったが、なにかもうひとつすっきりしなくて、勢いでメールを書いて送ってしまった。そして不思議なことに、そのメールを書いて30分もしないうちに、自分のなかで何かが完了した感じになって、すごくすっきりしてしまった。もはやメールの返答内容も、引越しの理由もどうでもよくなってしまった。コミュニティの人たちが、今回の引越しについて隠していることがあるのではないかとか、地権者の気が変わって急に敷地の明け渡しを請求されたのではないかとか、実際はずっと前から計画されていてわたしが単に知らなかっただけだとか、あるいは、いつもの通り、ただ聖霊が引越しを指示したからそれに従っただけだったとか、推測される理由のすべてが、メールを出して間もなく、そのどれでもよくなってしまった。不思議な感じだ。「真実の偶像」を手放し、隠れていた罪を聖霊の光に当てるという赦しは、メールを出した時点でほとんど完了してしまったのかもしれない。

『 静かになり、自分とは何か、とは何か、といったすべての想念、これまで学んできたこの世界についての一切の概念、自分について抱いているあらゆるイメージを脇に置く。あなたの心が、真実だとか偽りだとか、よいとか悪いとか思っているすべてのもの、価値があると判断する想念、あるいは恥じているすべての概念を取り去り、あなたの心を空にしなさい。どんなものにもしがみつかないようにする。過去が教えた想念も、以前あなたが何かから学んだ信念も、いっさい持ち込まないようにする。この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手をまったく空にして、あなたののもとに来なさい。(奇跡講座 ワークブック編 レッスン189 第7段落)』

メールの返信は今日やってきた。そのメールにはフレンドリーな短い文章で、今回の引越しに関する短い動画と音声クリップの二つが貼付されていた。そのどちらもすでにわたしが知っているもので、「引越ししますよ~」という前向きな内容だが、なぜ引っ越しすることになったかの理由や経緯は全く言及されていない動画と音声だ。つまり、返信されてきたメールは、わたしの出した質問の答えにはなっていなかった。質問フォームには、メールの返答者をこちらから指定できる仕様になっているのだが、誰が答えてくれても構わないので、特に指定しなかったら、返信者欄にはあまり知らないスタッフの方の名前が付されていた。もしかしたらスーパーインテリのフランシスさんを指定していたら、細かい理由がどどっと返ってきたかもしれないが、もはやそれにも関心はなく、もう一度問いただす気も起こらなかった。

真実についてたくさんの洞察をもたらしてくれたコミュニティという象徴も、最終的には偶像として手放すことになるものだとは、コミュニティが唐突に引っ越すようなことでも起こらないかぎり、わたしには学べない、気づけないことだったのかもしれない。これはわたしの自我、パーソナリティの傾向ゆえに生じた学びの機会だったと思う。メキシコに移ったコミュニティのメンバーのことを、わたしは今までとは違う新しい見方、眼差しで見ることになるだろう。かけている自覚もなかった特別性の色眼鏡が外れて、彼らの無罪性とつながる、そんな眼差しだ。

広告

肚で聴く

赦しをする際に恐れや痛み、不愉快さを感じる場所、その身体内部感覚の態様は、ひとによって違うと思う。他人のことは想像することしかできないけれど、マイティさんの話を聞いていても自分とは随分違う。わたしの場合、おへその下あたりから左側鼠径部の周辺まで。そこが赦しの際に恐れ、痛み、恥辱、その他うまく言葉にならない不愉快なフィーリングを感じる場所だ。下腹部はわたしにとって罪の感覚が鎮座する場所。

つい先日の新月に、何年か越しの大きな赦しが終わった感触があって、それで詰まっていたパイプがぼこっと抜けて通りがよくなった。罪のあったはずの下腹部からエネルギーが出て行って、それが他人の無罪性とつながると、なぜか今度はわたしの頭頂部からエネルギーが流れ込んできて循環する感じ。その循環のなかで、胸のあたりがほんわりとうれしくなる。いままでになかった身体感覚だ。「エネルギー」というのも説明しづらいが、なにかフィーリングの奔流のようなものが身体を流れていくのが感じられるのだ。

わたしにとって赦しとは、潜在意識からとめどなく湧き上がってくる恐れ、痛み、恥辱、不快さをひたすら受けとめ、それが神の愛によって癒されるよう祈る作業だった。積極的に「しあわせです!うれしいです!」みたいな感覚はほぼない。ただ無自覚のうちに抱えていた重くて黒い荷物が少し下ろされる度に、どこがどうとはいえないけれど軽くなっていく、その繰り返し。何かが抜けていき、軽くなって、少しほっとする。それがわたしが赦し続ける動機であり、報酬だった。だからいま、下腹部から抜け出て他人の無罪性を通じて再び頭頂部から入ってくるエネルギーの循環、その循環のなかで胸のあたりがほんわりうれしいという感覚は、いままでになかったもので、新鮮なのだ。ただほっとするだけでなく、積極的にうれしい、それがわたしには新しい。

自我の判断とは、罪と罪悪によるもの、有罪性の判断。わたしの身体内感覚でいうと、下腹部の罪・恐れを抑圧し、乗り越えるために、思考が世界を把握しようとしたり、組織や権威に忠誠・隷属を誓ったりしようとする。エネルギーの流れでいうと、下腹部から頭部へ、という流れだった。それが今回の新しい感覚では、下腹部から出て行って頭頂部に流れ込んでくるので、エネルギーの流れとしては逆になっている。

マニュアルには判断の放棄について書かれた節がある。ここに無罪性の判断についての記述があるが、この無罪性の判断と、今回のエネルギーの流れの変化とがどうも関係しているのかもしれない。実は結構前に、マイティさんから、わたし(蘭丸)の場合、聖霊の声は頭じゃなくて、肚で聴くんだと思うよ、と言われたことがある。その時は全く意味不明だったが。今後この新しいエネルギーの流れ、循環が、より確かなものとして定着していくのだと思う。そのときわたしは有罪性の判断から、無罪性の判断で生きるようになるんだろうか。いまはまだどう転がっていくのか何もわからないが。

風景

先日のこと。うちのトイレは玄関脇にあるのだが、トイレから出て部屋に戻ろうとすると、玄関に人が入ってきた気配がする。でも実際には誰もいない。気のせいかな、と思ってそのまま部屋に戻って椅子に座り、先ほどから続けていた赦しのための祈りを再開した。そしたら、どうもさっきの人の気配が近づいてきてるみたいなのである。あれ?やっぱりいる?と思って、祈りのためにつむっていた目を開けるのだがやっぱり誰もいない。目に見える次元にいない方がやってきたのかなと思って、そのまま祈り続けた。悪意や怖さは感じない。そしたらわたしの座っている椅子のすぐとなりに立ちつくす感じになってしまった。感覚的には、男性二人と子連れの女性、合わせて4人の方がお見えである。さすがに気が散るので、それを浄霊依頼と受けとめて、その人達のためにも祈ることにした。「心霊的」という記事で、半覚醒状態の時に浄霊っぽいことをやる羽目になったことを以前書いた。しかし今回はばっちり目は覚めている。姫乃宮亜美さんの本にもあったが、あがっていけない霊の方も、自分の内にある光に気づくとあがっていける。浄霊する人の役割は、その人たちの光を見ることで、それに気づいてもらうことと書いてあった。つまり、無罪性を見る赦しの手続きと基本的に変わらないのである。しばらく祈り続けていると、一人あがり、二人あがり、最後に全員あがられて、気配がなくなり「完了」という感じがやってきた。

客観的証拠の示せないことなので妄想だと言われればそれまでだが、物理的に人がいなくても人の気配ってやっぱりあるのだ。怖がってやたら誰かいるんじゃないかと気にしてると、ほんとにいるような気がしてしまうこともあるが、そんなこと何にも考えてないときに、唐突に人の気配が飛び込んでくると、その違和感のせいで誰かいるんだなと思わざるを得ない。

ところで、わたしがなんでこんな浄霊みたいなことをやらなければいけないのだろう。マイティさんと違い、わたしはもともと霊感が強いわけじゃない。でも、赦しが進んでいくうちに、不思議なことが起こる頻度が増えた気はする。この前買った、リサ・ロイヤルさんのギャラクティック・ルーツ・カードにたずねてみることにした。このカード、使っていると結構興味深くて、聖霊の声を聞くための拡張ツールみたいな役割を果たしてくれる。スポット的な浄霊仕事をやる意味はなんですかと尋ねると、「浄霊」という捉え方をするのではなく、赦し、癒しの結果として自然に展開する「風景」だと捉えなさい、という感じだった。もちろんこんなカードがあるわけではなく、いくつか出たカードを手がかりに聖霊にその解釈をたずねる感じだ。聖霊にたずねるのにカードが必要というわけではないが、わたしが抱えている制限的な思い込み、信念があると、聖霊が伝えてくれていても受け取れないことがあって、カードの言葉がその制限を取り外したところで発想、解釈するきっかけを与えてくれるのだ。

そういえばホ・オポノポノのヒューレン博士が、特別病棟で体験したエピソード、あの病棟で荒れていたのは囚人患者だけではなく、ポルターガイスト的な霊現象も多発していたという。ヒューレン博士がひたすら4つの言葉を唱えてクリーニングしているうちに、囚人だけでなく、ポルターガイストも静かになってしまったのだという。わたしたちの知覚枠組みでは、自分が祈ったりクリーニングしたり、何かすることで現象に変化が起こると、そこに因果関係を見出し、主体が客体を直接コントロールできたと捉えがちである。しかし、そういう直接的な仕組みではないかもしれない。

蒼い本を説明する際にワプニックさんやJACIM加藤さんが使用されるあの図を思い出してみよう。赦しの際、忘却のヴェールの向こう側(図、上部)での決断を強調されるわけだが、その決断の効果は、赦しをしている個人としての自分(図、下部の個人としての自分)に帰結すると考えがちかもしれない。赦しを思い立って始めるのは個人としての自分なのだから、図・上部の決断がうまく行けば、その赦しの結果を享受するのも自分個人だけだろうと思うのは自然だ。しかし、肉体ごとに個人個人がバラバラに分かれているという知覚のほうが幻想で、心は実際にはひとつしかないのなら、原因レベル(図、上部)での決断の効果は、図・下部における知覚世界全域に波及するはずである。

「(21)奇跡は赦しの自然なしるしである。奇跡を通して、あなたは神による赦しを他の人々にまで延長させ、それにより赦しを自らに受け容れる。」

「(45)どの奇跡も決して失われることはない。それはあなたが出会ったこともない多くの者たちにまで届き、あなたに自覚さえない状況で、思いもよらない変化を生み出すこともある。」(奇跡講座第1章1節 奇跡の原理より)

図・上部での決断が図・下部における知覚世界でどう波及するかは聖霊しだいだが、この波及効果として、浄霊現象、囚人患者やポルターガイストの沈静化を捉えるのが妥当だろう。起こそうと思って起こるのではなく、聖霊がその計画にもとづいて奇跡を波及させただけだ。赦したから・祈ったから・クリーニングしたから、それで分離した個人としての自分が意図した通りの結果が必ず起こるわけではないとは、こういう背景がある。わたしが体験した「人の気配の浄霊」も、赦しの結果として展開していった「風景」だというカード解釈は、こういう背景から理解できる。

更には、赦しの有無にかかわらず、主体が客体をコントロールする、自分が世界や他人を動かしているという知覚は自我の解釈であり、実際は原因レベルでの決断後に自動的に展開している風景だと捉えることもできる。普段わたしたちが行使しているつもりの「自由意志」や「選択」は実はまだ表層的なもので、原因レベル(図、上部)における決断の後に展開するシナリオの自我的解釈として「自由に選択しているつもり」でいる、そう捉えることもできるだろう。自分の肉体ぐらいは自由に操作でき、コントロールできてると思いがちだが、内臓も含めて冷静にひとつひとつ観察すれば、随意的(に見える)部分より、不随意的な部分の方が圧倒的に多い。ひらたくいえば、自分で生きてるつもりでいても、生にのっかり、生に流されるがままである。だからこそと言おうか、やはり、わたしたちを本当に自由にする選択、決断とは赦しであり、そのための祈りなのだと思う。