肚で聴く

赦しをする際に恐れや痛み、不愉快さを感じる場所、その身体内部感覚の態様は、ひとによって違うと思う。他人のことは想像することしかできないけれど、マイティさんの話を聞いていても自分とは随分違う。わたしの場合、おへその下あたりから左側鼠径部の周辺まで。そこが赦しの際に恐れ、痛み、恥辱、その他うまく言葉にならない不愉快なフィーリングを感じる場所だ。下腹部はわたしにとって罪の感覚が鎮座する場所。

つい先日の新月に、何年か越しの大きな赦しが終わった感触があって、それで詰まっていたパイプがぼこっと抜けて通りがよくなった。罪のあったはずの下腹部からエネルギーが出て行って、それが他人の無罪性とつながると、なぜか今度はわたしの頭頂部からエネルギーが流れ込んできて循環する感じ。その循環のなかで、胸のあたりがほんわりとうれしくなる。いままでになかった身体感覚だ。「エネルギー」というのも説明しづらいが、なにかフィーリングの奔流のようなものが身体を流れていくのが感じられるのだ。

わたしにとって赦しとは、潜在意識からとめどなく湧き上がってくる恐れ、痛み、恥辱、不快さをひたすら受けとめ、それが神の愛によって癒されるよう祈る作業だった。積極的に「しあわせです!うれしいです!」みたいな感覚はほぼない。ただ無自覚のうちに抱えていた重くて黒い荷物が少し下ろされる度に、どこがどうとはいえないけれど軽くなっていく、その繰り返し。何かが抜けていき、軽くなって、少しほっとする。それがわたしが赦し続ける動機であり、報酬だった。だからいま、下腹部から抜け出て他人の無罪性を通じて再び頭頂部から入ってくるエネルギーの循環、その循環のなかで胸のあたりがほんわりうれしいという感覚は、いままでになかったもので、新鮮なのだ。ただほっとするだけでなく、積極的にうれしい、それがわたしには新しい。

自我の判断とは、罪と罪悪によるもの、有罪性の判断。わたしの身体内感覚でいうと、下腹部の罪・恐れを抑圧し、乗り越えるために、思考が世界を把握しようとしたり、組織や権威に忠誠・隷属を誓ったりしようとする。エネルギーの流れでいうと、下腹部から頭部へ、という流れだった。それが今回の新しい感覚では、下腹部から出て行って頭頂部に流れ込んでくるので、エネルギーの流れとしては逆になっている。

マニュアルには判断の放棄について書かれた節がある。ここに無罪性の判断についての記述があるが、この無罪性の判断と、今回のエネルギーの流れの変化とがどうも関係しているのかもしれない。実は結構前に、マイティさんから、わたし(蘭丸)の場合、聖霊の声は頭じゃなくて、肚で聴くんだと思うよ、と言われたことがある。その時は全く意味不明だったが。今後この新しいエネルギーの流れ、循環が、より確かなものとして定着していくのだと思う。そのときわたしは有罪性の判断から、無罪性の判断で生きるようになるんだろうか。いまはまだどう転がっていくのか何もわからないが。

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風景

先日のこと。うちのトイレは玄関脇にあるのだが、トイレから出て部屋に戻ろうとすると、玄関に人が入ってきた気配がする。でも実際には誰もいない。気のせいかな、と思ってそのまま部屋に戻って椅子に座り、先ほどから続けていた赦しのための祈りを再開した。そしたら、どうもさっきの人の気配が近づいてきてるみたいなのである。あれ?やっぱりいる?と思って、祈りのためにつむっていた目を開けるのだがやっぱり誰もいない。目に見える次元にいない方がやってきたのかなと思って、そのまま祈り続けた。悪意や怖さは感じない。そしたらわたしの座っている椅子のすぐとなりに立ちつくす感じになってしまった。感覚的には、男性二人と子連れの女性、合わせて4人の方がお見えである。さすがに気が散るので、それを浄霊依頼と受けとめて、その人達のためにも祈ることにした。「心霊的」という記事で、半覚醒状態の時に浄霊っぽいことをやる羽目になったことを以前書いた。しかし今回はばっちり目は覚めている。姫乃宮亜美さんの本にもあったが、あがっていけない霊の方も、自分の内にある光に気づくとあがっていける。浄霊する人の役割は、その人たちの光を見ることで、それに気づいてもらうことと書いてあった。つまり、無罪性を見る赦しの手続きと基本的に変わらないのである。しばらく祈り続けていると、一人あがり、二人あがり、最後に全員あがられて、気配がなくなり「完了」という感じがやってきた。

客観的証拠の示せないことなので妄想だと言われればそれまでだが、物理的に人がいなくても人の気配ってやっぱりあるのだ。怖がってやたら誰かいるんじゃないかと気にしてると、ほんとにいるような気がしてしまうこともあるが、そんなこと何にも考えてないときに、唐突に人の気配が飛び込んでくると、その違和感のせいで誰かいるんだなと思わざるを得ない。

ところで、わたしがなんでこんな浄霊みたいなことをやらなければいけないのだろう。マイティさんと違い、わたしはもともと霊感が強いわけじゃない。でも、赦しが進んでいくうちに、不思議なことが起こる頻度が増えた気はする。この前買った、リサ・ロイヤルさんのギャラクティック・ルーツ・カードにたずねてみることにした。このカード、使っていると結構興味深くて、聖霊の声を聞くための拡張ツールみたいな役割を果たしてくれる。スポット的な浄霊仕事をやる意味はなんですかと尋ねると、「浄霊」という捉え方をするのではなく、赦し、癒しの結果として自然に展開する「風景」だと捉えなさい、という感じだった。もちろんこんなカードがあるわけではなく、いくつか出たカードを手がかりに聖霊にその解釈をたずねる感じだ。聖霊にたずねるのにカードが必要というわけではないが、わたしが抱えている制限的な思い込み、信念があると、聖霊が伝えてくれていても受け取れないことがあって、カードの言葉がその制限を取り外したところで発想、解釈するきっかけを与えてくれるのだ。

そういえばホ・オポノポノのヒューレン博士が、特別病棟で体験したエピソード、あの病棟で荒れていたのは囚人患者だけではなく、ポルターガイスト的な霊現象も多発していたという。ヒューレン博士がひたすら4つの言葉を唱えてクリーニングしているうちに、囚人だけでなく、ポルターガイストも静かになってしまったのだという。わたしたちの知覚枠組みでは、自分が祈ったりクリーニングしたり、何かすることで現象に変化が起こると、そこに因果関係を見出し、主体が客体を直接コントロールできたと捉えがちである。しかし、そういう直接的な仕組みではないかもしれない。

蒼い本を説明する際にワプニックさんやJACIM加藤さんが使用されるあの図を思い出してみよう。赦しの際、忘却のヴェールの向こう側(図、上部)での決断を強調されるわけだが、その決断の効果は、赦しをしている個人としての自分(図、下部の個人としての自分)に帰結すると考えがちかもしれない。赦しを思い立って始めるのは個人としての自分なのだから、図・上部の決断がうまく行けば、その赦しの結果を享受するのも自分個人だけだろうと思うのは自然だ。しかし、肉体ごとに個人個人がバラバラに分かれているという知覚のほうが幻想で、心は実際にはひとつしかないのなら、原因レベル(図、上部)での決断の効果は、図・下部における知覚世界全域に波及するはずである。

「(21)奇跡は赦しの自然なしるしである。奇跡を通して、あなたは神による赦しを他の人々にまで延長させ、それにより赦しを自らに受け容れる。」

「(45)どの奇跡も決して失われることはない。それはあなたが出会ったこともない多くの者たちにまで届き、あなたに自覚さえない状況で、思いもよらない変化を生み出すこともある。」(奇跡講座第1章1節 奇跡の原理より)

図・上部での決断が図・下部における知覚世界でどう波及するかは聖霊しだいだが、この波及効果として、浄霊現象、囚人患者やポルターガイストの沈静化を捉えるのが妥当だろう。起こそうと思って起こるのではなく、聖霊がその計画にもとづいて奇跡を波及させただけだ。赦したから・祈ったから・クリーニングしたから、それで分離した個人としての自分が意図した通りの結果が必ず起こるわけではないとは、こういう背景がある。わたしが体験した「人の気配の浄霊」も、赦しの結果として展開していった「風景」だというカード解釈は、こういう背景から理解できる。

更には、赦しの有無にかかわらず、主体が客体をコントロールする、自分が世界や他人を動かしているという知覚は自我の解釈であり、実際は原因レベルでの決断後に自動的に展開している風景だと捉えることもできる。普段わたしたちが行使しているつもりの「自由意志」や「選択」は実はまだ表層的なもので、原因レベル(図、上部)における決断の後に展開するシナリオの自我的解釈として「自由に選択しているつもり」でいる、そう捉えることもできるだろう。自分の肉体ぐらいは自由に操作でき、コントロールできてると思いがちだが、内臓も含めて冷静にひとつひとつ観察すれば、随意的(に見える)部分より、不随意的な部分の方が圧倒的に多い。ひらたくいえば、自分で生きてるつもりでいても、生にのっかり、生に流されるがままである。だからこそと言おうか、やはり、わたしたちを本当に自由にする選択、決断とは赦しであり、そのための祈りなのだと思う。

祈り言葉

赦しを続けていくと、必然的に祈らざるを得なくなり、赦しと祈りは合流し、融合していく。だから祈りは赦しに欠かせないのだが、祈る際に、祈りの言葉があると赦しがより効果的に進むと感じることがある。蒼い本のワークブックにも祈りの言葉はたくさんあるのだが、わたしが近頃使うのは、ホ・オポノポノで用いられる「ごめんなさい、ゆるしてください、ありがとう、あいしています」だ。これは果たして祈り言葉と言えるのかどうか微妙だが、でも効果は実感できる。

ずいぶん前、ホ・オポノポノの概説書を読んだ時は、4つの祈り言葉を唱えてクリーニングすれば、ストレスも解消されて、物事がスムーズに展開するようになる、といった内容として理解していた。どちらかといえば願望実現寄りのメソッドなのかと思っていた。ところが最近、祈り言葉として4つの言葉を使うと、赦す上でなかなか具合がいいなと思って、改めてホ・オポノポノの概説書を読み直すと、以前思っていたよりもずっと蒼い本に近い理論だったんだと認識を改めた。


(日本語字幕あり)

これはホ・オポノポノを教えているヒューレン博士のインタビュー。このインタビューを見ていたら、ヒューレン博士がどのような姿勢でホ・オポノポノに取り組んでいるかがわかって、やはりホ・オポノポノは蒼い本に近い思想をもっていたんだと確認した。クリーニングすることが自分の役割であり、生きてここにいる意味、とまで言い切る博士は、蒼い本でいうなら「神の教師の唯一の責任は贖罪である」と言っているのと同じであり、祈りの人として、祈る存在として自分を位置づけておられるように思えた。ホ・オポノポノの本は何冊も売りだされており、売り込みの都合上、一見、願望実現メソッドのような成果にスポットライトを当てた編集がなされがちだが、この動画のヒューレン博士のお話を聞いていると、どうもそんな姿勢でホ・オポノポノに臨んでいるわけじゃないことは明らかだ。ちなみにこの動画の序盤は、ヒューレン博士が微妙に感じ悪いというか、少し意地悪な感じの態度に思えて、インタビュアーの方が困惑しているようにも見えるのだが、ホ・オポノポノについての理解を正確に表したいという想いがそうさせているのだと、そう理解したらいいのだと思う(笑)。

ヒューレン博士といえば、行きがかり上、州立病院の、重罪犯で精神的錯乱の見られる囚人患者を収容する特別病棟に勤務することになったところ、患者を直接診察することなく、患者の名簿に対してひたすらホ・オポノポノし続けた結果、患者がしだいに大人しくなり、退院率が向上して、最終的にその特別病棟が不要になって閉鎖されてしまったというエピソードが有名だ。しかし、ヒューレン博士は、患者を治療する目的でホ・オポノポノしていたわけではない。これはホ・オポノポノの理論を背景にしないと正確には理解できないことだが、蒼い本でいうなら博士のやっていたことは赦しであり、知覚の訂正であり、原因レベルで心を癒していた、と説明できるだろう。望む方向へと結果を変化させることが目的でないことはホ・オポノポノも蒼い本も同じであるが、この世界において我々ができる真の貢献があるとすれば、それはやはり原因レベルでの祈り、癒しだといえるのかもしれない。

ところでゲーリー・レナードさんの本で、ホ・オポノポノの「ごめんなさい」の文句はいただけないな、とアーテンが話すくだりがあった。それはおそらく、罪悪感を強化するかもしれない懸念からだと理解したが、自分自身を振り返ってみると、自分がひとに迷惑をかけてしまって心苦しいとき、ごめんなさいと言って、それを受け入れてもらえることは肩の荷が下りる感じがするもので、必ずしも一概に「ごめんなさい」という言葉がまずいわけではないんじゃないかなと思っていた。

「ごめんなさい」という言葉は日本語ではひとに謝罪するときにしか使われないが、英語で I’m sorry はもう少し用途が広い。たとえば、友人が病気になったり、友人の親が急に亡くなったりした時に、友人に対して「まあ、それはお気の毒に」と相手を思いやる言葉として I’m sorry と言ったりする。わたしもどうしてこういう使い分けがなされるのか深く考えたことがなかったのだが、ここのベストアンサーを読んだ時に、なるほどねと合点がいった。I’m sorry のニュアンスがわかると、日本語の「ごめんなさい」だけではわからなかったホ・オポノポノの意図も理解できる。ただ、ゲイリーさんの本で出てくるアーテンは英語でしゃべってるはずなので、そこのところも踏まえた上で「ごめんなさい」という言葉の使用を懸念していたのだろう。ただ、ホ・オポノポノでは4つの言葉すべてを使うべきとは主張してはおらず、ありがとう、あいしています、だけでも効果はあると説明していたと思う。