二つの対処法

『悪霊喰』なんてB級ホラーな題名をつけられて主演のヒース・レジャーがかわいそうだが、カトリックにおける臨終間際の「ゆるしの秘蹟」を発端にした、少し切ない宗教映画だ。正確には「sin eater 罪喰い人」についてのお話である。キリスト教徒の少ない日本で罪(Sin)と言ってもインパクトがないので、題名をつけるのもたいへんだ。映画の内容はこちらの方のブログが詳しかった。ブログ主はプロテスタントの方のようで、宗教的な観点からの解説が詳しくなっているため、映画の要旨が適切に説明されていた。ヒース・レジャーの演じる神父がセクシーすぎる、こんな神父はいない、というのはこのブログ主の方の弁だが、男性のわたしから見るとスウィートな印象の神父だった。それもそのはず、これを演じた当時ヒース・レジャーはまだ23歳。でもこの年でなぜこんなに演技に貫禄があるのか不思議なくらい。この後に出演する映画も名演に次ぐ名演で絶賛されていたのに、28歳で不慮の事故で亡くなってしまい、もう新たにその演技を観ることはできない。

ところで「ゆるしの秘蹟」とは、臨終間際に生前の罪が神の名のもとにゆるされ、罪から解放されることで天国に旅立つことができる、というものだそうだが、この秘蹟、カトリック教会の司祭にしか行えない。教会から破門されると秘蹟を授けてもらえないから天国へ行けないことになっていて、そこに「罪喰い人」が介入してくる余地が生まれる。この映画の物語は、普通の人間が罪喰いに手を染めてしまうその動機が哀しみに満ちていて、とても切ないのである。神の力に頼ることができず(正確には、教会の規則のせいで)、愛した人を罪から解き放ち、天国に旅立たせてやりたいという想いから、人が罪喰いの道に足を踏み入れてしまう。

映画の解説が続いてしまったが、この映画には救いがなく、哀しく切ない結末だ。罪喰い人というコンセプトじたいが、カトリック教会の神学の枠組みの中でしか成立しないものだから、その枠組の中にいない人には、いったいこの人たちは何をやっているのだろう?という程度のお話だ。しかし、人間が自分の力だけで愛を全うしよう、大切な人のために身を捧げようとした時、避けがたく引き寄せてしまう哀しみ、犠牲、理不尽さというのは普遍性のあるテーマに思えた。

もうひとつ観た映画は『ザ・ライト エクソシストの真実』、実話が元になっているお話だそうだ。直球のエクソシズム、悪魔祓いをテーマにしている。ホラーといえばホラーなのだが、この映画、感動して2回も観てしまった。2回めなどラストシーンで落涙までする始末。もちろん怖すぎて涙が出たのではなく、感動してである。今回、悪魔祓い関連の映画を観るきっかけとなった癒しのテーマをズドンと貫くようなインパクトがあったのだ。わたしの側に「ツボ」があったから感動しただけの話で、一般的にはマイルドなホラー以上ではないと思うけれど。

主人公の神父見習いの若者は、懐疑的で、自分の信仰に確信がもてない中、通っている神学校の提案でエクソシストの講義を受けにローマに旅立つ。そこで悪魔祓いの熟練神父を紹介されるが、神にも確信がもてないのだから、悪魔憑きにもまた懐疑的である。ネタバレになるが、最終的にこの熟練神父が悪魔に取り憑かれてしまい、神父見習いがその悪魔祓いを遂行せざるを得ない羽目になる。しかし、自ら神への信仰に確信をもてない神父見習いは、悪魔に取り込まれる寸前まで追いつめられる。そのギリギリの状況で、神父見習いの心に大逆転の信仰確立が起こり、悪魔祓いは成功してめでたしめでたしとなるのだが、その信仰が打ち立てられてからの悪魔祓いシーンの迫力に感動してしまったのである。懐疑的で、自分の信仰に確信がもてないこの見習い神父に、わたしは自分自身を重ねていた。信仰が薄いために、神の愛に依ることなく、悪を知ることで悪に対処しようと孤軍奮闘する、その自力の奮闘には必ず理不尽さ、割り切れなさ、哀しみの結末が伴ってしまうのだが、この見習い神父はそのジレンマを困難のさなかに乗り越えたように思えたのだ。

悪魔といっても、蒼い本的な説明をすれば、否認され抑圧されてしまった罪の投影であり、象徴である。その象徴への対処として、自我的に対処するか、聖霊、神の愛への信頼を通じて対処するかで道が別れる。自我的な対処は、一見、悪魔を退散、罪を解消できたと見せかけて、実は罪は温存されてしまう。神の愛による対処は、罪じたいが実在しない、つまり悪魔が実在しないがゆえに、罪が受容されることで罪じたいが雲散霧消してしまう。図らずも今回鑑賞することになった、この記事で紹介した二つの映画は、罪、悪魔に対処する二つの道を鮮明な対比をもって示してくれることになった。

2回めの鑑賞時、ラストシーンで、熟練神父の元から見習い神父が母国へと戻る時にかけられた餞(はなむけ)の言葉は、まるでわたし自身に向けられた励ましの言葉のように感じられて、そこで落涙したのだった。何の変哲もないシーンだったのに。その台詞はこうである。

信仰は君自身となる
忘れるな

Faith becomes you,
stay with it.

神の御力をもって善き戦いを戦うのだ

Keep fighting a good fight,
with all Thy Might.

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悪を知る

映画は一度見たらシナリオもオチもわかってしまうからそんなに何度も観るものではないと思うけれど、それでも再度見始めるといつも終わりまで観てしまう映画がいくつかある。そのひとつが「コンスタンティン」。もう6、7回は観てると思う。この映画が持ってる雰囲気が妙に「馴染む」のだ。天使と悪魔、とりわけキリスト教的世界観のもとでの悪魔の描写には、どこか懐かしさのような愛着すら感じる。この人生のどこでそんな愛着を身につけたのかわからないので、いつものように前世のせいにしておく。前世の仮説やストーリー、イメージなどが実際にあったことかどうかは問題ではない。その前世の仮説やストーリー、イメージを通して、いま現在、自分のなかにある感情、信念、思考パターンがよりはっきりとつかめることが関心事である。そもそも映画を観ることじたいが、自分のなかにあるものを見極めるため、という側面がある。

「善を為すためには悪について十分に知っておかねばならない」という信念、思い込みがわたしのなかには確実にある。善や悪を持ちださなくても、権力、財力、武力の伴わない平和や幸せなど画に描いた餅だというプラグマティズムに説得力を感じ、それが現実主義的なことだと思えるのだが、それはわりとよくある考え方ではないだろうか。しかし、そのような発想、信念は果たして真実なのか?という疑問が、このブログで何度も触れてきた戦争のトピックにも強く関連している。

善をなすために、あるいは自分の大切な人たちを守るために、「力」がなければならない。敵、悪に打ち勝つにはその相手の手口を熟知し、それを上回らなければならない。こんな発想傾向をもし修道士のような立場で抱いた場合、悪魔への興味、探究心が自然と強まってしまうのではないだろうか。悪魔をより深く知ることで悪魔から身を守り、対処できると発想してしまう。そうするうちに、いつのまにか自分自身が少しずつ悪に染まり、悪魔に魅入られてしまうのだ。

悪に一定の力を認めてしまっていること、自分とは絶対的に相容れない「敵」、「悪」がいて、それを理解し、それと対峙することは現実的で、また避けられないことである、という発想傾向。恐れゆえに「敵」「悪」を実在視し、それに対処するための「力」を信奉し始める。しかし果たして「恐れ」も「敵」も「悪」も実在なのかという疑問を、蒼い本によって突きつけられてしまう。

このお盆は、『コンスタンティン』以外にも主に悪魔祓いをテーマとした映画を立て続けに観た。別にホラー映画を観て涼しくなりたかったわけではない。悪魔祓いの映画を観ることで、潜在意識の古層に居座っていたが、いまや浮上しかかっている古い信念、思い込み、感情エネルギーをはっきり見極めて、癒しの光を当てられそうな感触があるからだ。

真実の偶像

デヴィッドさんのFB(フェイスブック)のページに、「ユタのリヴィングミラクルのコミュニティはメキシコに移転します」とさらっと書いていた。「え!?」。最初、意味がわからなかった。でも、どうも文字通り、移転するようである。7月に大きなイベントがあって、日本から参加された方もいらっしゃったので、あのユタのコミュニティをご存知の方も多いかもしれない。あの地はおそらく10年ぐらい、デヴィッドさんたちのメンバーが拠点をおいてきた場所で、その建物や敷地の管理や修繕なども、ボランティアが地道に積み上げて、現在のようになっている。そんな場所を引き払うにあたり、あまりにその情報のアナウンスは唐突で、そっけなかった。引越し直前に唐突にアナウンスされた印象だ。しらみつぶしにFBを見ているわけじゃないけれど、ざっくりとはいつも見てきたので、引越しのニュースがあったらおそらく気づいているはずだし、基本的に彼らは正直でオープンなので、コミュニティの活動を頻繁に写真付きでアップし、少し大きなイベントでもあるとFBページにいっせいに情報があふれるのが通例だった。それが今回の拠点移転の引越しに関しては、発表は唐突だし、メンバーも7月のイベントが終わると早々に世界各国に散らばってしまって、引越しのことは唯一フランシスさんがそれをにおわせる写真を1枚アップしたきりである。

最初、このニュースに接した時、わたしのなかに湧いたのは不信感であり、事実を追及したいという思いだった。彼らの従来の行動パターンからすれば、今回の引越しの扱いはあまりに唐突でそっけなく、不自然だ。次に湧いてきたのは、漠然とした喪失感と切なさに似たものだった。あきらかにわたしは動揺していた。そこに至ってようやく、自分に何が起こっているのかがわかってきた。デヴィッドさんの歩んできた道と、あのユタのコミュニティに集まる人たちは、わたしにとって真実の象徴みたいなものだった。これまでデヴィッドさんのYouTube動画を相当たくさん見てきて、頻繁にあのユタのコミュニティの建物、屋内、敷地の風景が動画に映り込み、デヴィッドさんが教える内容とセットでわたしの記憶に収まっていた。そのため、あのコミュニティはわたしにとって真実の象徴みたいな意味合いをもってしまっていたようだった。2年ほど前は、あのコミュニティを訪れていいかどうか何度も聖霊に尋ねたことがあったのだが、その都度、「いまは行く必要はない」という回答が返ってきて、行かずにいた。行くタイミングが来たら知らされるだろうと思っていたら、ユタのコミュニティは移転してしまうのだという(笑)。

象徴は幻想に属するもので、言い方を変えれば偶像である。偶像は、やってきては過ぎ去っていく。偶像は移り変わるのが定め。偶像を通じて、わたしたちは真実を模索し、真実に触れよう、つながろうとする。そういう意味では、蒼い本じたいもまた偶像である。偶像を通じて真実に触れるきっかけが与えられたとしても、偶像じたいが真実なのではない。偶像そのものが真実だと思い込む時、自分の外側、自分とは時間的にも空間的にも離れたところに真実があるような錯覚に陥り、いまここにいる自分のなかに真実があることを失念する。その失念が罪を正当化する、あるいはその失念じたいが罪として機能し、分離の幻想を実在視させてしまう。コミュニティの唐突な移転によって生じたわたしの動揺、不信感、喪失感、切なさは、偶像を不意にはぎとられて、隠れていた罪が急にひきずりだされたせいで感じることになったものだ。コミュニティの移転については、その理由の追及ではなく、いつもどおりの赦しの手続きがわたしには必要なようだった。

引越しのニュースを知ったのが8月2日で、自分のなかで整理がついてきた昨日、ふと、それでもメールを送ってみようと思いついた。メールは以前、蒼い本に関連しない件で、ごく事務的なメールを一度送ったことがあるだけだった。今回の「真実の偶像」についての赦しは一区切りつきそうだったが、なにかもうひとつすっきりしなくて、勢いでメールを書いて送ってしまった。そして不思議なことに、そのメールを書いて30分もしないうちに、自分のなかで何かが完了した感じになって、すごくすっきりしてしまった。もはやメールの返答内容も、引越しの理由もどうでもよくなってしまった。コミュニティの人たちが、今回の引越しについて隠していることがあるのではないかとか、地権者の気が変わって急に敷地の明け渡しを請求されたのではないかとか、実際はずっと前から計画されていてわたしが単に知らなかっただけだとか、あるいは、いつもの通り、ただ聖霊が引越しを指示したからそれに従っただけだったとか、推測される理由のすべてが、メールを出して間もなく、そのどれでもよくなってしまった。不思議な感じだ。「真実の偶像」を手放し、隠れていた罪を聖霊の光に当てるという赦しは、メールを出した時点でほとんど完了してしまったのかもしれない。

『 静かになり、自分とは何か、とは何か、といったすべての想念、これまで学んできたこの世界についての一切の概念、自分について抱いているあらゆるイメージを脇に置く。あなたの心が、真実だとか偽りだとか、よいとか悪いとか思っているすべてのもの、価値があると判断する想念、あるいは恥じているすべての概念を取り去り、あなたの心を空にしなさい。どんなものにもしがみつかないようにする。過去が教えた想念も、以前あなたが何かから学んだ信念も、いっさい持ち込まないようにする。この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手をまったく空にして、あなたののもとに来なさい。(奇跡講座 ワークブック編 レッスン189 第7段落)』

メールの返信は今日やってきた。そのメールにはフレンドリーな短い文章で、今回の引越しに関する短い動画と音声クリップの二つが貼付されていた。そのどちらもすでにわたしが知っているもので、「引越ししますよ~」という前向きな内容だが、なぜ引っ越しすることになったかの理由や経緯は全く言及されていない動画と音声だ。つまり、返信されてきたメールは、わたしの出した質問の答えにはなっていなかった。質問フォームには、メールの返答者をこちらから指定できる仕様になっているのだが、誰が答えてくれても構わないので、特に指定しなかったら、返信者欄にはあまり知らないスタッフの方の名前が付されていた。もしかしたらスーパーインテリのフランシスさんを指定していたら、細かい理由がどどっと返ってきたかもしれないが、もはやそれにも関心はなく、もう一度問いただす気も起こらなかった。

真実についてたくさんの洞察をもたらしてくれたコミュニティという象徴も、最終的には偶像として手放すことになるものだとは、コミュニティが唐突に引っ越すようなことでも起こらないかぎり、わたしには学べない、気づけないことだったのかもしれない。これはわたしの自我、パーソナリティの傾向ゆえに生じた学びの機会だったと思う。メキシコに移ったコミュニティのメンバーのことを、わたしは今までとは違う新しい見方、眼差しで見ることになるだろう。かけている自覚もなかった特別性の色眼鏡が外れて、彼らの無罪性とつながる、そんな眼差しだ。