悪を知る

映画は一度見たらシナリオもオチもわかってしまうからそんなに何度も観るものではないと思うけれど、それでも再度見始めるといつも終わりまで観てしまう映画がいくつかある。そのひとつが「コンスタンティン」。もう6、7回は観てると思う。この映画が持ってる雰囲気が妙に「馴染む」のだ。天使と悪魔、とりわけキリスト教的世界観のもとでの悪魔の描写には、どこか懐かしさのような愛着すら感じる。この人生のどこでそんな愛着を身につけたのかわからないので、いつものように前世のせいにしておく。前世の仮説やストーリー、イメージなどが実際にあったことかどうかは問題ではない。その前世の仮説やストーリー、イメージを通して、いま現在、自分のなかにある感情、信念、思考パターンがよりはっきりとつかめることが関心事である。そもそも映画を観ることじたいが、自分のなかにあるものを見極めるため、という側面がある。

「善を為すためには悪について十分に知っておかねばならない」という信念、思い込みがわたしのなかには確実にある。善や悪を持ちださなくても、権力、財力、武力の伴わない平和や幸せなど画に描いた餅だというプラグマティズムに説得力を感じ、それが現実主義的なことだと思えるのだが、それはわりとよくある考え方ではないだろうか。しかし、そのような発想、信念は果たして真実なのか?という疑問が、このブログで何度も触れてきた戦争のトピックにも強く関連している。

善をなすために、あるいは自分の大切な人たちを守るために、「力」がなければならない。敵、悪に打ち勝つにはその相手の手口を熟知し、それを上回らなければならない。こんな発想傾向をもし修道士のような立場で抱いた場合、悪魔への興味、探究心が自然と強まってしまうのではないだろうか。悪魔をより深く知ることで悪魔から身を守り、対処できると発想してしまう。そうするうちに、いつのまにか自分自身が少しずつ悪に染まり、悪魔に魅入られてしまうのだ。

悪に一定の力を認めてしまっていること、自分とは絶対的に相容れない「敵」、「悪」がいて、それを理解し、それと対峙することは現実的で、また避けられないことである、という発想傾向。恐れゆえに「敵」「悪」を実在視し、それに対処するための「力」を信奉し始める。しかし果たして「恐れ」も「敵」も「悪」も実在なのかという疑問を、蒼い本によって突きつけられてしまう。

このお盆は、『コンスタンティン』以外にも主に悪魔祓いをテーマとした映画を立て続けに観た。別にホラー映画を観て涼しくなりたかったわけではない。悪魔祓いの映画を観ることで、潜在意識の古層に居座っていたが、いまや浮上しかかっている古い信念、思い込み、感情エネルギーをはっきり見極めて、癒しの光を当てられそうな感触があるからだ。

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