風景

先日のこと。うちのトイレは玄関脇にあるのだが、トイレから出て部屋に戻ろうとすると、玄関に人が入ってきた気配がする。でも実際には誰もいない。気のせいかな、と思ってそのまま部屋に戻って椅子に座り、先ほどから続けていた赦しのための祈りを再開した。そしたら、どうもさっきの人の気配が近づいてきてるみたいなのである。あれ?やっぱりいる?と思って、祈りのためにつむっていた目を開けるのだがやっぱり誰もいない。目に見える次元にいない方がやってきたのかなと思って、そのまま祈り続けた。悪意や怖さは感じない。そしたらわたしの座っている椅子のすぐとなりに立ちつくす感じになってしまった。感覚的には、男性二人と子連れの女性、合わせて4人の方がお見えである。さすがに気が散るので、それを浄霊依頼と受けとめて、その人達のためにも祈ることにした。「心霊的」という記事で、半覚醒状態の時に浄霊っぽいことをやる羽目になったことを以前書いた。しかし今回はばっちり目は覚めている。姫乃宮亜美さんの本にもあったが、あがっていけない霊の方も、自分の内にある光に気づくとあがっていける。浄霊する人の役割は、その人たちの光を見ることで、それに気づいてもらうことと書いてあった。つまり、無罪性を見る赦しの手続きと基本的に変わらないのである。しばらく祈り続けていると、一人あがり、二人あがり、最後に全員あがられて、気配がなくなり「完了」という感じがやってきた。

客観的証拠の示せないことなので妄想だと言われればそれまでだが、物理的に人がいなくても人の気配ってやっぱりあるのだ。怖がってやたら誰かいるんじゃないかと気にしてると、ほんとにいるような気がしてしまうこともあるが、そんなこと何にも考えてないときに、唐突に人の気配が飛び込んでくると、その違和感のせいで誰かいるんだなと思わざるを得ない。

ところで、わたしがなんでこんな浄霊みたいなことをやらなければいけないのだろう。マイティさんと違い、わたしはもともと霊感が強いわけじゃない。でも、赦しが進んでいくうちに、不思議なことが起こる頻度が増えた気はする。この前買った、リサ・ロイヤルさんのギャラクティック・ルーツ・カードにたずねてみることにした。このカード、使っていると結構興味深くて、聖霊の声を聞くための拡張ツールみたいな役割を果たしてくれる。スポット的な浄霊仕事をやる意味はなんですかと尋ねると、「浄霊」という捉え方をするのではなく、赦し、癒しの結果として自然に展開する「風景」だと捉えなさい、という感じだった。もちろんこんなカードがあるわけではなく、いくつか出たカードを手がかりに聖霊にその解釈をたずねる感じだ。聖霊にたずねるのにカードが必要というわけではないが、わたしが抱えている制限的な思い込み、信念があると、聖霊が伝えてくれていても受け取れないことがあって、カードの言葉がその制限を取り外したところで発想、解釈するきっかけを与えてくれるのだ。

そういえばホ・オポノポノのヒューレン博士が、特別病棟で体験したエピソード、あの病棟で荒れていたのは囚人患者だけではなく、ポルターガイスト的な霊現象も多発していたという。ヒューレン博士がひたすら4つの言葉を唱えてクリーニングしているうちに、囚人だけでなく、ポルターガイストも静かになってしまったのだという。わたしたちの知覚枠組みでは、自分が祈ったりクリーニングしたり、何かすることで現象に変化が起こると、そこに因果関係を見出し、主体が客体を直接コントロールできたと捉えがちである。しかし、そういう直接的な仕組みではないかもしれない。

蒼い本を説明する際にワプニックさんやJACIM加藤さんが使用されるあの図を思い出してみよう。赦しの際、忘却のヴェールの向こう側(図、上部)での決断を強調されるわけだが、その決断の効果は、赦しをしている個人としての自分(図、下部の個人としての自分)に帰結すると考えがちかもしれない。赦しを思い立って始めるのは個人としての自分なのだから、図・上部の決断がうまく行けば、その赦しの結果を享受するのも自分個人だけだろうと思うのは自然だ。しかし、肉体ごとに個人個人がバラバラに分かれているという知覚のほうが幻想で、心は実際にはひとつしかないのなら、原因レベル(図、上部)での決断の効果は、図・下部における知覚世界全域に波及するはずである。

「(21)奇跡は赦しの自然なしるしである。奇跡を通して、あなたは神による赦しを他の人々にまで延長させ、それにより赦しを自らに受け容れる。」

「(45)どの奇跡も決して失われることはない。それはあなたが出会ったこともない多くの者たちにまで届き、あなたに自覚さえない状況で、思いもよらない変化を生み出すこともある。」(奇跡講座第1章1節 奇跡の原理より)

図・上部での決断が図・下部における知覚世界でどう波及するかは聖霊しだいだが、この波及効果として、浄霊現象、囚人患者やポルターガイストの沈静化を捉えるのが妥当だろう。起こそうと思って起こるのではなく、聖霊がその計画にもとづいて奇跡を波及させただけだ。赦したから・祈ったから・クリーニングしたから、それで分離した個人としての自分が意図した通りの結果が必ず起こるわけではないとは、こういう背景がある。わたしが体験した「人の気配の浄霊」も、赦しの結果として展開していった「風景」だというカード解釈は、こういう背景から理解できる。

更には、赦しの有無にかかわらず、主体が客体をコントロールする、自分が世界や他人を動かしているという知覚は自我の解釈であり、実際は原因レベルでの決断後に自動的に展開している風景だと捉えることもできる。普段わたしたちが行使しているつもりの「自由意志」や「選択」は実はまだ表層的なもので、原因レベル(図、上部)における決断の後に展開するシナリオの自我的解釈として「自由に選択しているつもり」でいる、そう捉えることもできるだろう。自分の肉体ぐらいは自由に操作でき、コントロールできてると思いがちだが、内臓も含めて冷静にひとつひとつ観察すれば、随意的(に見える)部分より、不随意的な部分の方が圧倒的に多い。ひらたくいえば、自分で生きてるつもりでいても、生にのっかり、生に流されるがままである。だからこそと言おうか、やはり、わたしたちを本当に自由にする選択、決断とは赦しであり、そのための祈りなのだと思う。

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