到来

先日、『メッセージ』という映画をマイティさんと一緒に観てきた。この映画の監督はドゥニ・ヴィルヌーヴさんという方。この監督の映画はいままでに「灼熱の魂」「プリズナーズ」「ボーダーライン」の三作品を観てきたが、どれもやたら重たい社会病理を題材にして描かれた作品だった。それらに比べると今回観てきた「メッセージ」という映画は、かなり印象が違った。まず、宇宙船が突如、地球に12隻やって来てしまうSF映画であり(映画の原題は「arrival(到来)」)、それだけで従来作品と題材が違う。たしかに社会や人間はこれまでと同様に描かれているのだが、従来の気が滅入ってしまうような重たさはなく、まだ見ぬ新しい時代を予感させる斬新さのほうが強く印象に残る映画だった。

映画を観ていると、「言語」「コミュニケーション」「時間意識」というテーマが縦糸となり、主人公の女性の人生が横糸となっている印象だった。この映画において主人公が「女性」であることは、それじたい重要な意味をもっていたと思う(このブログではあからさまなネタバレにならないよう、抽象的な書き方を心がけますが、少しでもまっさなら状態で映画を見たい方は、以降、記事を読むのはお控えください)。

いささか手垢のつきすぎてしまった「スピリチュアル」という言葉をここで使いたくはないが、この映画はただのSFではなく、たぶん、そう遠くない未来に実際にやってくる新しい時代、あるいは人間の新しい意識のあり方を予告する映画だと思う。原題の「arrival(到来)」という言葉は、単に宇宙船・宇宙生命体が地球にやってくることだけを意味しているのではなく、主人公の女性が覚醒し始めた時間意識のあり方が、人類全体にごくゆっくりとしたペースで「到来」し始める、それを予告しているように思えた。

おそらくクライマックスと言っていいシーンを見ながら、自分の頬に静かに涙が伝うのだが、自分がなぜ涙を流しているのか、すぐには理由がわからなかった。激しく感動しているとかではなかったからだ。でも、よくよく振り返ると、この種の涙は初めてではなかった。人と人が「つながり」を回復したときに物事が奇跡的なかたちで解決する、その光景が心に触れていつも涙してしまう。「つながり」じたいに感動があるのだ。そして、その「つながり」は「正気」とも言い換えられる。「つながり」を失っている時、わたしたちは「正気」を失っている。正気を失っている時、わたしたちは攻撃や防御という解決策しか思い浮かばなくなってしまう。それすら精一杯の善意なのが人間の哀しさだ。つながりを失い、正気を失うとき、わたしたちは恐怖に飲み込まれ、恐怖から生じるあまりにステレオタイプな思考・行動パターンを「善意のもとに」自動的になぞってしまうのだ。

コミュニケーションの可能性を信頼し、「つながり」を信頼し続けることで正気を保った主人公。この主人公が女性であったことは、ある種の必然だったと思う。一方で、恐怖にまみれた「善意」を愚直に遂行しようとした男たちは半ば戯画的に描かれてもいたが、その男にすんでのところで正気を保たせたのは、やはり女の言葉だった。

つながりを信頼し続けた主人公は言語から解放され、新しい時間意識のもとで、新しいリアリティを受容する。そのことは劇中、女性主人公の強さをも印象づける結果となるのだが、それは男たちが大げさな破壊兵器で身につけようとした種類の「強さ」ではなかった。女性主人公に備わった強さは、受容する力であり、赦しを通じて顕され、生きられることになった愛と言ってもいいと思う。

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