起こってる。起こってない。

<老夫婦>の夢以来、知覚される他人は例外なく自分の罪のエネルギーを解離させてそれを象徴したものとして現れている、という観点から、愛をもって受容し、赦すというアプローチを続けている。他人には客観的なその人の性格、あり方、属性があって、それは自分とは関係なく独立したものに見えているけれど、他人は、「わたしが知覚している」他人像であることから逃れられない。そういう意味では客観的というより主観的なものだと言える。それでもなお客観的に見えてしまうから、自分とは線を引いて裁いてしまうこともできる。しかし、他人の「見え方」は全面的に自分の知覚に責任があるとなると、かなりハードルが上がる感じだ。この点についてゲーリーさんの二冊目の本『 不死というあなたの現実(河出書房新社)』で、しっくりとくる記述があった(以下、不死現と略)。

『ここにいるわれわれがほんとうは一つなら、そして心の無意識の部分はそれを知っているなら、人を批判したり非難しているぼくらはいったい何をしているのか? 自分の無意識の心に自分たちは批判され非難されるべき存在だというメッセージを送っているだけではないのか? 他者について考えることは全部、ほんとうは自分自身について自分にメッセージを送っているようなものだ。だからJは、ここにいると思っているぼくらがほんとうは一つであるなら、そして無意識の心がそれを知っているなら、自分は一生涯すべての人にその真実の姿を見よう、つまり分離というインチキな考え方から生じたに過ぎない個々別々の身体ではなくて完璧な精霊を見よう、と決めたんだ。彼はすべての人を無辜の純なキリストとして見ようとした。人々をほんとうの姿で考えた。傷つき得ない存在、それどころかこの世界には触れることもできない存在として。
 このように悟りの鍵はごく少数の人しか知らない秘密にあったのだが、その秘密をJはよく知っていた。自分が自分についてどう感じるか、どういう自分を経験するかは、他者にどう見られどう考えられるかで決まるのではない。自分についてどう感じ、どういう自分を経験するかは、自分が「他者を」どう見てどう考えるかできまる。つまるところ、それが自分のアイデンティティを決定する。自分を身体と同一視するか完璧な精霊と同一視するか、分断されていると見るか全体と見るかを決めるのは、自分が他者をどう見るかだ。これが理解できたら、他者についての考え方にはものすごく注意深くしないとまずいと思うだろうな!
(不死現 初版P36。ちなみに、精霊:spirit→霊、無辜:innocent→無罪・無垢、純:pure→純粋)』
 

さらっと日本語で読み流してしまうけれど、これ、実際やることは可能だろうか。たとえば、幼い子を無残に殺す犯罪者、己の欲得のためだけに強盗殺人を犯す者、そういう人たちを「無辜で純なキリスト」と見るなんて、実際可能なのだろうか。まして自分をひどい目に遭わせた人物を、なんとかがんばって赦して、裁く想いや憎悪や殺意は脇に置けたとしても、果たして「無辜で純なキリスト」なんて見れるだろうか。どうにもこうにも無理な感じがしてしまうし、なんらかの飛躍、ブレイクスルーが必要に思える。でも、<老夫婦>の夢以来、このことに取り組まないかぎり、もう赦しが前進しない感じがしているのも事実だ。他人として見えているものが、たとえ凶悪犯であっても、あくまで「わたしが知覚している」他人像ならば、その知覚についてはわたしの管轄領域にあると言える。客観的に相手が凶悪、極悪に見えても、そう見せているのがわたしの知覚ならば、わたしがその知覚を聖霊の力を通じて変化させることは、可能な気はする。でも、聖霊の力無しに進められるとは到底思えない。キリストを見ると言っても、無理やりそう思い込もうとしても全く無理だし、多分無意味な話でもある。

ここまで来て、蒼い本における赦しの基本的定義が必要になってくる。

『 赦しは、兄弟から自分に為されたとあなたが思っていたことは、起こってはいなかったと認識する。罪を赦すことで、それを実在するものとして扱うことではない。罪は存在していなかったと見るのである。その見方において、あなたの罪のすべてが赦される。罪とは、神の子についての偽りの概念以外の何だろう。赦しは、罪をただ虚偽と見るので、それを手放すのみである。そうなれば、今や神の意志は、自在に罪と入れ替わることができる。(奇跡講座ワークブック編 P477)』

「起こっていなかった」って、いったいどういうことだと未だに訝しくそう思う。だって起こってるでしょ。これは世界が有るか無いかの話とつながってくるが、世界が有るなら罪も有る、ということになるのは間違いない。起こってるのなら、罪もリアルだ。痛い目に遭っておいて、「起こっていない起こってない」って念仏のように唱えても、否認や逃避的な防衛にしかならないと思うが、でもこの「起こっていなかった」という認識を、赦しにおいて導入することがいよいよ避けられなくなってきたようなのだ、いまになって。

長らく続けていた回収解除という赦しのアプローチにおいて、別に世界が実在していても癒しが起こり続ける実感があったので、「世界、別に実在してても構わないかな」ぐらいに思ってた。蒼い本の形而上学上「世界は無い」という命題が重要なのは知的には知っているが、赦しの実践において、なくてもそれほど不都合を感じなかったのだ。「世界が無い」という違和感の方がずっと強かったし、あからさまに世界は実在するようにしか見えないのは今も変わらない。動揺をもたらすかに見える対象・相手に、心の中で、あるいは実際に、無防備に直面しながら投影された罪のエネルギーを回収するだけで十分に癒しが起こり続けていたからだ。(つづく)

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