例外なく無罪なのは不都合か。

世界が実在していて、起こっているかに見えることが実際に起こっているなら、例外なく完全に赦すのは無理だ。起こっているかに見えることが実際は起こっていないのなら、凶悪犯罪者に見えていても、何もしていないから無罪だ、という可能性は生じる。抽象的な思考実験にすぎないかに思えるこの議論、しかしもう避けては通れなさそうだ。これはなんらかの飛躍的な「選択、決断」を要することで、じっくり眺めてたら「あ、世界って実在してない、起こってなかった」なんて結論に都合よくたどりつくとは思えない。ただその「決断」がどういうものなのか、いまのわたしにはまだピントが絞りきれていない。

例えば、極悪犯罪人のやったことが「起こってなかった」と見る、本質的に「無罪だ」と見ると、どんな不都合なことがあるだろう。犯罪が立証された被疑者が野放しにされるという話ではないだろうが、でも、もしみんなが「起こってなかった」「無罪だ」と思ってくれるなら、犯罪者はその隙を突いてやりたい放題犯罪しまくるんじゃないだろうかという懸念が、自我的にはどうしても生じてしまう。そのとき、なにを懸念しているかといったら、犯罪者によって被害を受けてしまう人の都合であり、更にいえば誰かさんの「肉体の都合」だ。こういった懸念は、世界が実在し続けるという前提で誰かさんの肉体の都合を考えると、必然的に至る結論だ。だからわたしたちは警察制度・司法制度を整備せずにはいられない。

いくら原因レベルで赦すんです、結果は関係ないんですと主張しても、過渡的に世界は実在しているように見えるし、ゆっくり世界がその実在性を薄めていくというわけでもないだろう。原因と結果がそこまで截然とわけられるだろうか。かすかであっても結果レベルでの利害、主に肉体の都合を懸念、執着しているかぎり、それは原因レベルで完全に聖霊を選ぶことを阻害してしまうのではないか、兄弟、他人の完全な無罪性を見ることを躊躇してしまうのではないか。これについて、正直まだ結論は出ていない。でも「常識」や「普通さ」でお茶を濁せるテーマとは思えない。

『ええ、そうよ。決定的な宣言というのは、「コース」の教えとは何かを決定する明確な考えのことで、「コース」の内容を要約しているんです。世界がないとしたら、赦すべき対象はない。この事実をあなたが出会ういろいろな出来事や状況や人について認識することは、進んだ赦しとなる。なぜなら、あなたは誰かがほんとうにした何かについて赦すのではなく、その人たちがほんとうは何もしていないことを認識するからよ。だから実際にはあなたはその人たちを夢見ている自分自身を赦しているんです。この違いは大きいわ。それがなければ古いタイプの赦しを実践することになるし、それではエゴは解体できません。(不死現P150)』

『「赦すとは、あなたが兄弟にされたと思っていることは実際には起こっていないと認識することだ。それは罪を免じることによって対象を現実(リアル)にすることではない。罪などないと見抜くことである。その見方のなかで、あなたのすべての罪が赦される」
そして、そう見抜くことにおいてのみ、あなたのすべての罪は赦される、ということも付け加えましょうか。世界が現実(リアル)なら罪も現実(リアル)で、彼らは有罪だし、あなたも有罪だってこと。少なくともあなたの無意識はそう解釈するでしょう。わかる?彼らがほんとうは何もしていないから無辜であるなら、あなたもほんとうは何もしていないから無辜なの。これもまた決定的な考え方の一つよ。そこから逃れることはできない。それを自分の一部にすることで、あなたは全体になれる。(不死現P152)』 

世界が実在することと罪がリアルであることは分かちがたく結びついている。だから例外なく完全に赦そうとしたら、「世界は実在していない」という結論を、抽象的な思考実験としても受け入れざるを得ない。しかし普段生活する時、「世界は実在していない」ということを自分の認識にどう組み込んでいったらいいのか。自分の肉体が自分の生命で、肉体の都合は最低限考慮せざるを得ない、この実質的に譲れるとは思えない考慮と、「世界は実在していない」という命題との対立は、どう昇華されるのだろう。

『「コース」の導入部の次のところには、「ここに神の平和がある」と記されているわね。これは自明でしょう。わたしたちがこの導入部を持ち出したのは、わたしたちが赦しについて話すときは選択について話しているのだ、という事実を強調したいからよ。その選択とは、あなたは何者なのかという選択なの。あなたは神から離れた何者かなのか? あなたは個なのか? ほんとうにこの世界に生きているのか? 死すべき者か? 身体か? あるいはあなたは精霊で、源(ソース)と一体なのか、不変で永遠で不死でまったく傷つき得ない者か? 後者なら赦すべきことは何もありません。身体だけが赦すべき不平不満をもっているの。だから赦しとは他者は何者なのかを選ぶことを通じてほんとうの自分を何者だと信じるか、という選択なんです。(不死現P109)』

この記事の初めのほうで、飛躍的な「選択、決断」を要すると書いたけれど、ここでも「選択」の話が出てきている。特にズバリと断言されているこの文章「だから赦しとは他者は何者なのかを選ぶことを通じてほんとうの自分を何者だと信じるか、という選択なんです」、この赦しの定義は気持ちいいほど簡潔で、このところのわたしの問題意識を言い切っていて、パーサすげえとつい感心してしまった。

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