再訪

ゲーリー・レナードさんの本、2冊めと3冊目を再読してみた。わたしは「ゲーリー」さんて言ってしまうが、邦訳では「ゲイリー」さんと訳されてる。でも英語で聴くと「ギャリー」さんて聞こえる。ギャリー・レナード。別の人みたいだ。

3冊目は邦訳を持っていないので、1・2冊めの訳者の吉田さんと、3冊目の訳者のティケリーさんとで、翻訳の雰囲気にどのくらい違いがあるのかよく知らない。吉田さんの訳だと翻訳じたいはほぼ正確で、ただいくつか気になる訳語、文体があって、ゲーリーさんがパーサ&アーテンのことを「あんたがた」って呼ぶのが気になって仕方なかった。ゲーリーさんは動画で見ると、はにかみがちで、シャイな感じの人だから、「あんたがた」って時代がかった言葉がどうもしっくりこないのだ。普通に「きみたち」とか「あなたたち」でよかった気がする。あと、パーサのキャラクターは、ちょっときつそうな学校の先生みたいなしゃべり方だけど、原文で読むともっとニュートラルな印象だ。パーサのキャラは、もしかしたら翻訳者の吉田さんご本人のキャラに近いんじゃないかと勝手に想像してにんまりしている。

あと、公認訳では「霊」と訳されてるSpirit(スピリット)って言葉が、吉田さん訳だと「精霊」と訳されていることが多い。公認訳で「知覚」と訳されているperceptionは「認識」と吉田訳では訳されてる。このへんは、蒼い本の形而上学でも重要な用語なので、学習歴も長くなってきた今となっては違和感を感じるけれど、出版された当初読んだときは、まったく気にも留めなかったところだ。そういえば、ヘレンさんの姓が「シチュクマン」と訳されてるのは不思議な感じで、吉田さんがどうしてこの訳をされたのかわからない。しちゅくまん。かわいい響きではあるけど。いまは日本でも「シャックマン」さんの方が通用していると思うから、もう問題ないのかもしれない。

3冊目の邦訳「愛は誰も忘れていない」のレビューを見ると、評価が分かれていて興味深い。確かに3冊目はちょっと脱線した内容が多く盛りこまれてる感はあるし、「歩け」だの「蜂蜜舐めろ」「水飲め」だのの健康法の列挙に至っては大きなお世話だよと思ったりするが、それもあくまで断りを入れた上での記述ではあるし、大枠が蒼い本の形而上学から逸脱しているとは思えない。それより1冊めから3冊目まで、蒼い本の基本的主張が一切ブレてないことのほうがすごいと思った。蒼い本の形而上学が全然わかってない状態で、入門書として神の使者を読んだ時は、「幻想~♪ 幻想~♪」しか印象に残らなかった。今になってゲーリーさんの本を読んでみると、基本的なことがきちんと書いてある本だなあという印象が増すばかりだ。蒼い本本体の語り方はバラエティに富んでいるが、ゲーリーさんの本は、形而上学の本質は外さず、表現のバラエティは抑えつつ、蒼い本の基本的主張を同じ表現で繰り返しているのがわかる。これは3冊を通してそうだ。過去世や未来の話、宇宙人の話など、ニューエイジくさいトピックが散りばめられながらも、一応、蒼い本の形而上学の傘下にそのトピックを収めているので本に膨らみをもたせることになっており、興味深く読み続けることができるのだった。それはつまり、ゲーリーさんの本から蒼い本の主張だけを抽出してみると、30ページぐらいの記述で終わってしまうだろうということでもある。

もう1点、敬服すべきなのは、ゲーリーさんが一学習者というスタンスを保っていることだ。1冊めの本がベストセラーになって、講演旅行が日常化した頃も、ゲーリーさんは一人目の奥さんと離婚のことですったもんだしてたし、税務署と揉めたりもしてた。ご本人の私生活で赦しの課題は常に押し寄せていたのがわかる。本が売れて公の視線にさらされるようになってからも、こういうプライベートなことを可能なかぎりあけっぴろげにできることは、いざ実際にやれるかというとなかなか難しいものだ。

ゲーリーさんの本で思ったことをつらつら書いてみたが、今回、ゲーリーさんの本を再読したのは、多分「世界は無い」「世界は幻想」というトピックについて、わたしの実践上確認したいことが生じたからだと思う。(つづく)

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