彼の中の私

<老夫婦>の赦しはまだ続いている。夢の中で見た象徴としての<老夫婦>は、想像以上に大きな罪のエネルギーを帯びていた。欠乏感、剥奪感、弱さ、怯え、不信、それゆえの抱え込み、境界線への執着、防衛。その姿が帯びる寒々しさ、痛々しさ。わたしとは全く違う人種と見て、哀れみやかすかな蔑みすら感じていたのに、実はそれが潜在的にわたしが抱え込む罪を象徴してくれている姿だと知るショック。愛をもってその<老夫婦>を受容することが、自分自身の罪を取り消し、癒すことになるという感触。

『 比較とは自我による仕組みに違いない。愛はいかなる比較もしないからである。特別性は常に比較する。それは他者の中に見られる欠乏によって確立され、知覚可能なあらゆる欠乏を捜し出して、それをはっきりと見えるところに保持することで維持される。特別性が探し求めるのはこれであり、目を向けるのもこれである。そしてそれがそのようにして貶めるその人は、もしあなたが自分の特別性を測る小さな物差しにするという選択をしていなかったなら、必ずあなたの救済者となったはずの人である。あなたが彼の中に見ている卑小さを背景にすれば、そこに見えているものとの比較において、あなたは気高く堂々としており、清廉にして正直、純粋にして汚れなきものということになる。またあなたは、このようにして貶めている相手は自分自身だということも理解していない。(奇跡講座テキスト P651 上段)』

<老夫婦>が自分とは全く異質な人種、自分とは全く別の「他人」だという知覚は、わたしが自分自身を欺くものであり、わたしが見ていたのは自分の姿だった。この洞察は、この現実のなかで出会うすべての他者にも敷衍して適用されるものだと直観した。つまり、他人に知覚していることは「常に」「すべて」、解離されて自覚できなくなった罪ある自分の姿、潜在的に抱える自分の罪を象徴してくれる姿だということ。だからこそ、その他人の罪を赦すこと、他人を愛をもって受容すること、つまり愛することは、自分を愛すること、自分の罪を取り消し、自分の無罪性を思い出すことにつながる。愛するとは兄弟の無罪性を信じることのなかに、自分の無罪性を確信することであり、その愛の中で罪は溶け去る。これは、与えることと受け取ることは真理においてひとつ、というのと同じことだ。

回収解除という長らくやってき赦しのスタンスにおいては、まだ自他の分離は確固としたものだった。不快さの原因たる他者を赦すという知覚。しかし「愛する」「与える」という名のもとで行われる赦しにおいて、「他者」はいない。すべての人々は、本質的に自分だという認識が前提となる。これが以前の赦し方とは根本的に違うところだと思う。実は、このことは昨年末、米子でマイティさんにダウンロード的なインスピレーションが降りてきた時に予告されていたことだった。2016年12月25日の「山陰への旅③」という日記から一部引用する。

・リアリティの視座が変わる。分離していない全体性としてもれなく世界を捉えていくこと。そこには他者はおらず「私」の内的投影世界が広がっている。

・投影装置が差し出す全ての赦しこそが贖罪の役割であること。見かけ上「私」が担う赦しの役割とは「私」だけのものではない。同じ罪と罪悪感を持つ他者の意識の領域にまで救い(光)は波及される。

・赦しの機会が差し出された時には、聖霊に祈りを捧げ献身して身(「私」という分離した個人の感覚)を必ず引き下げること。神の愛をそこに入れるのは聖霊の役割であり、それを「私」が邪魔しないこと。邪魔しなければそれは広がり続ける性質がある。

・最初に「与える」ことによって、もはや朽ちた木のようにボロボロになっている罪と罪悪感に基づいた自我の信念が神の愛によって一気に押し流されて消えていく。最後のこれは、今まで行ってきた回収解除というアプローチでは機能せず、「与える」ことによって消える。

・・・今回の<老夫婦>の夢で学んだこと、そのまんまだ。半年ぐらい前から聖霊にたずねるたびに「愛しなさい、愛しなさい」と言われ、わたしは「わかりません、わかりません」と答えた。それより更に前から「与えるって、いったい何を与えるんだろう??」と疑問に思ってきた。やっといまになって、その意味合いが明らかになってきた気がする。ただ明らかになったものの、更にハードルがあがった感じもしないではない。漠然といつ来るかわからない「ゴール」を意識しながら赦しを続けてきたが、「愛する」「与える」とは、多分、終わらないプロセス、永遠のプロセスだ。なぜならそれが、わたしたちの真の姿だからだ。

『 兄弟の聖性の前で世界は静まる。平安が優しくその上に降り立ち、完全なる祝福に包まれたその世界に、もはや、夜の闇の中であなたにつきまとう葛藤の痕跡は一つも残っていない。彼は、恐れの夢からあなたを救う救済者である。彼が癒すのは、あなたの犠牲の感覚と、自分がもっているものがいずれ風に吹き飛ばされて塵と化すだろうというあなたの恐れである。彼の中にこそ、がここに存在し、今あなたと共に居るとあなたに保証するものがある。彼が本来の彼である限り、は知ることができるものであり、いずれあなたに知られることになると、あなたは確信してよい。は決してご自身の被造物から離れ去ることはできない。そして、あなたの兄弟の中には、その通りだというしるしがあり、彼の聖性の前であなた自身についての疑いがすべて消滅するようにと、彼があなたに与えられている。彼の中にの被造物を見なさい。彼のは、あなたが自分もの一部としてに創造されたと認識するのを、彼の中で待っているからである。(奇跡講座テキスト P662 下段から)』

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