老夫婦の夢

夢の中の記憶は、夢の中で保存されているらしく、以前見た夢の続きを見ることがある。だから夢の中で、ここは以前来たところだな、これは以前見た光景だな、と以前の記憶を思い出しながら、その夢を体験していることがある。

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こんな夢を見た。

道路沿いのサービスエリア。以前来たことがあるのだが、となりの土地との境界をがっちり築いて、「ここから私有地」という看板も新たに立っており、新たに創ったらしいその土地の地名まで看板で掲げてある。専門家に相談して、そのような措置をしたことまで書いてある。以前は、そこまでがっちり境界だの看板などなかった(と夢の中の記憶を思い返している)。

大きな駐車場のある土地の奥のほうに小さな雑貨店ぐらいの規模の店がある。そこに乗りつけた車が買い物をしていくのだが、サービスエリアがわりの雑貨店を経営しているのは、老夫婦である。家の普段着にガウンをはおって店に出てきている、私生活と店の経営とが区別されてない感じ。老夫婦はか弱い感じではあるが、お客としてやってくる人たちに、どこか冷たい、不信がにじむ目で見てくる。お客さまへの愛想はない。わたしもその店に客として入っていくのだが、やはり不信そうな目で老夫婦は見てくるので、かなり居心地が悪く、不愉快である。

店に入っても、たいして買うものもなく、ホスピタリティゼロの老夫婦の店番なので、さらっと店内を見回しただけで、そそくさと店を出て行った。店を出て自分の車に乗り込むのだが、やはり老夫婦は不審そうな目でこちらを見送っている。

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目が覚めてもはっきり憶えている夢というのは、大抵、その時点で自覚していない自分のエネルギーを象徴してくれている。この不愉快な老夫婦の夢が妙に印象的で、しかも、なんでそんな夢を見たのか全然わからない。だから聖霊にたずねてみたのだが、「あなたの姿」と言われてしまう。夢は自分のエネルギーの象徴、というこれまでの経験からすれば、そのような返答は推測できないではなかったけれど、あの老夫婦が自分の姿だと言われてしまうと、さすがにいい気はしないし、にわかには受け入れ難い。

自分の土地と店を守るのに必死で、やってくる人を歓迎する余裕すらなく、老いて脆弱な身が、いつ襲われやしないかと怯えすぎているせいで、やたらと客に対して不審そうな目で見てしまう。そんな老夫婦の姿を、夢の中で客として見るわたしは、痛々しいな、惨めだな、いたたまれないなと哀れみすら感じて眺めているのだ。それなのに、どうしてあの老夫婦が自分の姿なのだろう。

昨年末、米子に行ったあたりから、愛すること、与えることを模索する羽目になっているが、まだそれが具体的な行動にまでは結びついてはいない。愛することもまだ手探りだし、何を与えていいのかもわからない。ただ、与える、ということを考えた時、実際に与えるところに行き着く前に、クレクレ星人、寄生虫、餓鬼のような、ただ吸い取るだけ、受け取るだけ、搾取するだけ、依存するだけ、という人間が頭に浮かんで、与えることを躊躇する自分がいるのは事実だ。そういう人間がすべてじゃないのに、自分が吸い尽くされる、喰い漁られる、という想いのほうが立ちはだかって、与えるという想いはか細く、立ち消えになってしまう。やはりこのまま行けば、ぼくはあのか弱い老夫婦のようなエネルギーをまとって生きてしまう、そういうところが実際にあるのかもしれない。

この夢の話をマイティさんに話したら、そうだねえ、あなたのまんまだねえ、とさらっと言われてしまう。ショック。正直、涙目。ふだんは下腹部に不快さや痛みの反応が出るのだが、この夢のエネルギーを反芻していると、胃の後ろ側あたりをとがったものでつつくような不快な痛みが走る。その痛みに触れていると、うっすら涙目になってしまう。痛いとこ突かれているということか。欠乏感、剥奪感、怯え、不信感を帯びて感じられる、その痛み。たぶんこのエネルギーこそが、聖霊から与えられたものを兄弟へと与えていくのを妨害している、ブレーキをかけているのだと思う。

どう考えても自分とは別人種に思える老夫婦。惨めだな、痛々しいな、ああはなりたくないなと思いながら、実際、その老夫婦の象徴するエネルギーは、わたしのものなのだという。そしてわたしはそれを全く実感も自覚もできないし、受けとめられない。でも、マイティさんから、そのまんまだね、と言われると、なんでだか涙目になってしまう。屈辱すぎて、でも、自分の中で何かが「射抜かれている」感じがして、その射抜かれたものは、どうやらあの老夫婦がまとっているエネルギーと同じもののようなのだ。これが蒼い本でいう「解離」というやつなのか。こうまで自分のことだとは全く思えず、他人事として軽蔑することさえできてしまうのか。自分のエネルギーを象徴してくれてる姿だというのに。

夢のまとっていたフィーリング、エネルギーを観察して、いったい何を象徴しているのかをつきとめることが習慣となって久しいが、これは起きている時の赦しと同じか、それ以上に大事な手続きとなっている。なぜなら、夢で教えられることは起きている時には気づくことができないような解離の激しいエネルギーを象徴する夢であることが多いからだ。あまりに自分が同一化してしまって、否認、抑圧、解離、投影してしまったエネルギーというのは、もはや自分のものとして受け入れることが想像もできないほど難しくなってしまうからだ。

近頃は、寝ている時の夢で感じているエネルギーと、起きてからも日常的に感じているエネルギーがもはや連続してつながっているので、起きている時に知覚する現実世界、そこに感じるフィーリング、エネルギーは、すべて自分のものなのだ、という捉え方をせざるを得なくなっている。現実だと思っているこの日常が、睡眠中の夢の延長上にあるものとして体験され、赦しの課題となっている。他人を他人として扱って、あれこれと論評したり分析したりしている場合ではないのだ、ほんとは。他人に見て、感じているものが、「常に」「すべて」自分のエネルギーなのだというのは、まだかなり受け入れがたいこと。けれど、そのエネルギーこそ愛をもって受容し、聖霊にゆだね、浄化してもらう必要がある、らしいのだ。あの老夫婦がまとっていたエネルギーを思い浮かべながら、それを自分のものとして受けとめ、聖霊にゆだね、祈る。

そう思っていたら、ヤフーニュースでこんな記事が。わたしが見た夢の老夫婦とは真逆の印象のご夫婦である。でもこの人達がもし、「吸い尽くされる」なんて思っていたら、自分たちで作った花を分け与えることなんてしないだろう。いまこのタイミングで目に飛び込んできた、花を贈るこのご夫婦のお話は、わたしにとってはただのいい話では済ませられそうもない。

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