行き違い

一人目の女性。最初はニコニコしゃべっていたのに、途中から豹変して、キレ気味の恐い顔でしゃべってる。ワプニックさんの説明することは、蒼い本の形而上学の説明としては、常に正しい。正しいけど、女性は怒ってしまう。この動画を見ていると、もう少し女性の側に寄り添ってワプニックさんが答えてあげたら、ここまで女性がいきり立つ必要もなかった気はするが、多人数を相手にした講義形式と個人向けカウンセリングとでは、対応方法も変わって当然だし、たぶん起こるべくして起こることなのだろう。

この動画に疑問をもった方が日本にもいて、JACIMの加藤さんとの問答が動画の下の方に公開されていた(こちらは字幕あり)。加藤さんの説明は、動画に関する過不足のない解説、解釈に思えるが、この質問者のKMさんという方は、果たしてこの返答で納得できたのかどうかは、この公開問答からだけではよくわからない。

動画の女性は、最初、自分の夫らしき男性の「代理で」、質問を始めている。その代理の質問内容は、自分がもはや激怒しても仕方ないほど完全に間違った、悪い相手というのは存在し得るか、というものである。これは「怒りは正当化できない」という蒼い本の教えに対応した疑問、質問と推測される。ワプニックさんの説明は、有罪を観るなら自他共に有罪、無罪を観るなら自他共に無罪、しかし自我は、相手は有罪、自分は無罪という主張をする、という趣旨である。この説明じたいは蒼い本の定石的説明だ。

ところがこの後から、女性の質問・主張内容は、当初のものと変わってしまう。激怒しても仕方ない相手だっているんじゃないか?という質問(夫の代理質問)から、怒っても仕方のないような相手を自分の領域に招き入れた自分に責任があるでしょ?という主張にすり替わってしまうのだ。ワプニックさんはこれに対しても適切な説明をされるのだが、もはや女性は聞いていない。明らかにお互いが念頭においている概念が行き違っているのだが、もはやそれをすり合わせる余裕がいきり立つ女性には無くなっている。皮肉なことだが、「怒っても仕方ない相手はいるのではないか?」というのが当初の質問だったのに、この女性はワプニックさんに対してきっちり怒っているわけである。きっとワプニックさんは、怒っても仕方のない相手だったのだ(苦笑)。

これはわたしの推測なのだが、この女性本人が元々もっていた主張は「ある出来事が起こることとその解釈には自分に責任がある」というもので、この女性の夫がもっていた主張は「怒ってもしかたないほど悪い奴はいるのではないか」という主張。夫婦で意見が食い違ったので、ワプニックさんに裁定してもらおうと、女性の方が夫の代理で質問に立ったのではないか。女性がする質問(=夫の代理質問)に、ワプニックさんが反論を加えていくうちに、女性は、夫の代理質問をしているだけで、自分自身の意見は違うのよ!という想いに駆られ、本来の自分の主張である自己責任論の方にシフトしたが、そこにもワプニックさんの反論が加えられて、パニクってしまう。もはやひっこみがつかなくなった女性は、自分の本来の主張をキレ気味に反復するしかなくなる。

動画の女性の質問は、一見、蒼い本の解釈、理解についての質問を装ってはいるが、実際には「私が正しいか、夫が正しいか、ワプニックさん、どっちが正しいか決めてください(もちろん私が正しいわよね!)」という動機が背後にあった質問ではないか、というのがわたしの推測的解釈である。当初、夫の代理質問「怒っても仕方ないほど悪い相手はいるんじゃないか?」に、ワプニックさんは「相手が間違ってれば全ての人が間違ってる、相手が正しければすべての人が正しい」という包括的な回答を与えている。実は、潜在的に動画の女性を動揺させていたのは、すでにこの回答だったのである。なぜなら、女性の潜在的な質問動機は「私か夫か、どっちが正しいか、どっちが間違っているか、決めてちょうだい!」だったからである。夫の代理質問に対してワプニックさんが与えた回答が、奇しくも女性の潜在的動機を論破する形となっており、女性は質問の最初の段階で出鼻をくじかれてしまっているのである。このように考えれば、この動画をさらっと観るだけではわかりにくい女性の「発火」してしまった理由、キレ始めた理由が、理解できるものとなるのではないだろうか。

前置きが長くなってしまったが、別にこの動画の女性とワプニックさんの行き違いを解きほぐしたかったわけではない。質問者というのは、質問に答える側からは見当もつかない事情を抱えて質問してくるものであり、それに対して理論的には正しい回答を与えたところで、質問者は別に満足しないことはよくある。満足しないどころか、わけがわからない理由で、この動画の女性のようにキレたりするのだ。しかし、この動画の女性がいきりたつ経緯を、ただのコミュニケーション上の行き違いとして捉えるだけでいいのだろうか。

そもそも人はなぜ質問するのだろうか。立派な先生なら自分では出せない答えをくれるかもしれないとか、自分の理解が正しいかどうか確認したいとか思って質問するのだろう。けれど、質問者自身が質問の真の動機を自覚していない、質問に対する回答を質問者が理解できない、あるいは理解できても受け入れられないということは、少なくとも蒼い本ではよくあるのではないかと思う。蒼い本を理論として、知識として教えることはできても、赦しじたいを教えることは、絶望的にむずかしい。赦しは、それをするメリットと意欲が人の中に「自発的」に生じていないかぎり、継続して実践することはまずないだろうと思う。

つい最近JACIMでアップされていた「教える」ということについての動画は、蒼い本でいう「教えること」の模範的解答が示されていた。動画の下に、ワプニックさんの発言が引用されている。『これが私の仕事なので教えていますが、私は、自分がクラスを教えていること自体が、(マニュアルが述べているような意味での)「教える」ということだなどといった幻想は抱いていません』。これはワプニックさんの謙遜なのだろうか?それとも逃げ口上なのだろうか? 少し理解に苦しむ発言である。人生の膨大な時間を、クラスで教えることに捧げられたワプニックさんが、それが神の教師として「教えること」になるようにと心がけなかったとは思えないからである。ならば謙遜的発言と読むのが妥当なのだろうか?

しかし、最初の動画における女性とのやりとりを見ていると、やはり「神の教師」というのは難しいのかもしれないとも思ってしまう。女性の質問動機は、それがたとえ夫の代理質問であったとしても、ワプニックさんを使って自分の自我の目論みを正当化してもらおう、お墨付きをもらおうとするものである。もちろん女性は意識の表面ではそんな風には思っておらず、正しい解釈をワプニックさんに決めてもらおうと思っているだけかもしれない。この女性に対して神の教師として振る舞うのなら、どういう知覚で、どういう応答をすればよかったのか。聖霊ならば、相手の自我を強化する方向で応対したりしないだろうし、相手が赦しを進められる方向で助言するだろう。しかし、ワプニックさんは形而上学的には完全に正しい説明をしながら、相手の女性は態度を硬化させ、いわば自我が強化される方向に押し出してしまったようにも見える。理論的には誰よりも正確な説明のできるワプニックさんですら、動画のように不可解に憤る女性を前にする時、軽く途方にくれてしまったんではないだろうか。それでも1000本ノックに向かっていく高校球児のように、理不尽な学習者たち(笑)に淡々と向き合われていたのではないだろうか。上記ワプニックさんの謙遜的発言は、このような動画の女性とのやりとりを見ている時、少し納得できる気がするのだった。

『 あなたが自分の誤りを預けてしまいたいのなら、兄弟の誤りについてもそうしなければならない。このやり方ですべての誤りを扱うようにならない限り、あなたはすべての誤りがどのようにして取り消されるのかを理解できない。これは、あなたは自分が教えることを学ぶと言うのと、どこが違うだろう。あなたの兄弟はあなたと同じく正しいのであり、もしも彼が間違っていると考えるなら、あなたは自分自身に有罪宣告をしているのである。
 あなたは自分自身でさえ訂正できない。そのあなたに、他者を訂正することが可能だろうか。だが、あなたは自分自身を真に観ることができるので、兄弟をも真に見ることができる。あなたに任されているのは、兄弟を変えることではなく、彼をただありのままに受け入れることである。彼の誤りは彼の中にある真理から生じてはいない。そして、この真理のみがあなたのものである。彼の誤りはこのことを変えることもできなければ、あなたの中にある真理にいかなる影響を与えることもできない。誰かの中に誤りを知覚し、それが実在するかのように反応するなら、あなたにとってはそれが実在のものとなる。あなたはこのための代価を支払わねばならなくなるが、それはそのために罰を受けるからではなく、間違った導き手に従っているために道に迷ってしまうからである。(奇跡講座テキスト P235)』

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