チームワーク

おそらく高校生ぐらいの頃、「ターナー&フーチ/すてきな相棒」というコメディ映画を友達と見に行って、その主演がトム・ハンクスだったのを憶えている。以来、わたしの中ではトム・ハンクスという俳優さんはコメディ俳優のイメージだったのに、アカデミー賞を受賞したあたりから、シリアスな映画への出演が増えて、一本気、生真面目な印象の役が多くなった気がする。2度目のアカデミー賞受賞作『フォレスト・ガンプ』はまだコミカルな役柄だったけれど、これ以降、トム・ハンクスの演じる役柄はなんとなく一本調子な気がして、あまりわたしの好みではなくなってしまった。トム・ハンクスさんご本人としては大作映画の常連主演俳優として、キャリア的には絶頂へ向かっていくのだから結構なことなのだが、コメディやってる時のほうが演技がイキイキしててわたしは好きだった。今も時々、コミカルな役柄はあるみたいだけれど。

ここ最近の映画では、「ブリッジ・オブ・スパイ」、「ハドソン川の奇跡」という映画があって、どちらも実話を題材にしたものだ。どちらの映画も観るまでもなく生真面目そうだし、たぶん普段ならどちらも観ないはずの映画なのだが、「ハドソン川の奇跡」の方はなぜか気になるのだった。離陸したばかりの飛行機がトラブルにより両翼ともエンジン停止したものの、奇跡的にハドソン川に水面着陸したお話。

でも結局、観た。

この事故で機長だったチェズレイ・サレンバーガーさん(通称、サリー。この映画の原題も「Sully(サリー)」である)は、飛行機を無事着水させ、乗客乗員155名を無事生還させたにも関わらず、適切に判断していれば着水という危険な手段を取らなくとも無事最寄りの空港に着陸できたのではないかという疑いをかけられ、事故調査委員会の聴聞ではまるで被疑者のような扱いをされてしまう。映画も大半はこの部分に焦点が当てられている。しかし最終的にはサリー機長の取った判断が最適なものだったということが証明され、メディアでも奇跡のヒーロー扱いされることになる。しかし、サリー機長ご本人によると、40年に渡るパイロット経験と日頃の訓練、研鑽のおかげで適切に下された判断の結果であって、偶然人知の及ばない力が働いて起こった「奇跡」ではないし、無謀な賭けに出るような「ヒーロー」でもないと、再三、奇跡のヒーロー扱いに難色を示したという。ただの謙遜ではなく、もし「奇跡のヒーロー」だったとしたら、着水はたまたま起こったことになってしまい、事故調査委員会で「無謀な判断をした」として断罪されてしまう恐れもあったからだ。

実話を丹念に追った映画なので、淡々としているし地味ですらあるかもしれない。わたしも淡々と見ていたが、最後のあるシーンのセリフで一気に嗚咽モードに放り込まれてしまった。それは、サリー機長の判断が完全に適切なものだったと公開の審問会で証明された時、機長を追及する側だった委員の一人が、今回の無事着水は、機長の存在がなければどう考えてもあり得ないものだったとその功績を讃えたのだが、サリー機長は「それは違います」と答える。

『 私だけの力ではない。全員の力です。ジェフ、ドナ、シーラ、ドリーン(注:乗組員の名前)。乗客のみなさん、救助に駆けつけた人々、管制官たち、フェリーや潜水班、全員が力を尽くし、全員が生還した。』

緊迫感はあったものの、淡々と見ていた映画の最後のシーンのこのセリフで、一発ノックアウトされてしまった。実は、この映画を観た翌日、この話をマイティさんにしている時も、思い出して再び嗚咽モードに放り込まれ、更に今、この記事を映画のセリフを確認しながら書いていると、おはずかしいことにまた涙が出てきてしまった。どんだけだよ。

セリフを確認してみても、それほど特別なことを言ってるわけじゃない。たぶん他の人が観たら、謙虚な人だなあと感心しこそすれ、泣くほど感動するセリフでもないだろう。けれど、わたしにはこのセリフが「チームワークへの完全な信頼」をあらわすセリフに思えていたのだった。

わたしの自我の特徴として繰り返し書いてきた忠誠・隷属Guilt。これは組織、集団を前提とする規範意識、信念だ。それが自我のコアにあったため、このブログでは一貫して悪者のような扱いだった。もともと、この視点はエニアグラムという人格分類論から拝借したもので、人間の自我の傾向を9種類にタイプ分けする。わたしはタイプ6のウイング5。しかし、このネガティブに論じられがちな自我傾向も、癒やされて健全になった時、それぞれのタイプは特有の美質、美徳を発揮し始める。タイプ6においてそれはチームへの奉仕、貢献であり、チームワークへの信頼である。構成員のそれぞれが自分の役目を果たし、それが有機的に連携して、個人では出せない成果を出せる。そのことに美しさを感じる、わたしの魂にはそういう感性が最初からあるのだと思う。会社勤めをしているときは、自分に余裕がなかったせいか、個人プレイが多かったせいか、そんなチームワークを感じられる瞬間がまれにしかなく、けれどそのまれに感じた瞬間のことは今でもはっきり憶えている。わたしはチームワークにほとんど飢えていたとさえ言える。なのにわたしのこれまでの人生は、孤独でいることが多かった。

いまになってわかることだが、わたしの魂の奥底には、このチームワークが人殺し、戦争のために使われてしまう、しかも最終的に自分が身を捧げた集団すら破滅させ、結局、誰のためにもならなかったという、どうしようもない絶望感が刻み込まれていたのだった。最善を尽くし、そして最悪の結果に至る。もはやそれをどうしていいのかわからないやりきれなさ、もどかしさ。どうして解いていいのかわからない謎。その謎を作り出した張本人が自我であり、解決策は赦しであり、癒やしなのだという結論に至ってからは、ようやく自分が生きていることに意味が感じられるようになってきた。すべてが無駄で無意味で、不毛な結論に至ってしまう、そういう底知れない危惧感、不可解な恐れがいつもあって、それがわたしの人生において奇妙な臆病さとなって現れていた。

サリー機長のセリフは、わたしの魂を通して表現される美質、美徳があることを示唆し、予兆してくれているように思えた。そして、その美質、美徳は神からのもの、愛からのものであり、それぞれの人がそれぞれに特有のあり方で美質、美徳を体現していく可能性があるということ、それがタイプ6のわたしの目からは、有機的に連携して、みんなをしあわせにできる可能性すらあるということ。このことが、たったひとつのセリフがもたらした感動、嗚咽の中で、一気に伝えられたように思えたのだ。このことを『 幸せな夢 』と呼ばずしてなんと呼ぼう。神が最後の一歩をとる直前に通過するというHappy dream、幸せな夢のコンセプトの具体的ヴィジョンを、トム・ハンクス演じるサリー機長のセリフが与えてくれた。トム・ハンクスはコメディだけの俳優じゃなかった、と訂正しなければなるまい。

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