最悪のシナリオを赦す

前回記事を書いたのが1月10日で、その二日後、映画『シンドラーのリスト』を観ているうちに、ホロコーストというテーマの中で自分が焦点を合わせるべきポイントがはっきりした。それは、理不尽な虐殺を実行する立場、無抵抗な他人の殺害を組織的に遂行する側に完全に自分の身を置いてみる、ということだった。その立場から見える光景を追体験することで内側に生じる感情エネルギー、身体感覚をしっかり受けとめ、引き受ける必要があるようだった。そうするとなにかがカチッとはまる感じがして、今回のテーマはこれだったのだという実感が湧いてきた。今の自分が実際に殺害するわけにはいかないから、映画の中で仮想的に追体験するわけだけど。

(↓ ショッキングな処刑のシーンが続きます。苦手な方は視聴を控えてください。)

上の映画は「カティンの森」という映画の1シーン。このカティンの森事件は、ホロコーストに属する出来事ではないが、それと近い時期に起こった虐殺事件である。ソ連軍とドイツ軍がポーランドを東西両側から侵攻し、分割占領してしまった1939年の翌年、約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された。この映画の監督アンジェイ・ワイダの父親がまさにこの事件の犠牲者だという。

上に挙げた映画のシーンは、組織的な大量処刑というものの無機質さ、機械的流れ作業の雰囲気を不気味に表現している。この時代でも、処刑人の心理的負担を減らすために複数人で一人の人間を銃殺するケースも他国ではあったはずだが、この映画では一貫して一人の人間が拳銃によって処刑を行っている。こういう映像を見ると、以前なら気づかないうちに被害者、犠牲者の立場、あるいは悲惨な光景を目撃する第三者の立場で赦しを試みることが大半だったと思う。けれど今回は、赦し以前に、虐殺を遂行する側にできるかぎりの感情移入し、追体験する必要があるようだった。・・いったい自分でも何をしているのだろうかと思う。殺されるのは恐いが、戦闘相手でもなく、個人的な怨恨や憎悪がある相手でもないのに次から次へと人を処刑するのは独特の不愉快さ、重苦しさだ。

虐殺、処刑する側の感覚に自分をシンクロさせる。感情エネルギー的にはそれでミッション終了という感じだったのだが、それはいったいわたし自身にとってどういう意味合いをもっていたのか、知的にはまだ整理がつかなかった。とりあえずナチ・ホロコースト関連の情報仕入れは終わったが、知的な整理にはまだしばらく時間がかかった。

もともと、カリスマとしてのヒトラーへの関心から始まった今回のナチ・ホロコースト集中月間。やはりこれも結局、わたしの自我のコア傾向である忠誠・隷属Guiltに関する案件だった。もし1930年代のドイツで青春期を送っていたら、多分わたしはヒトラーに心酔していたタイプなんではないかと思う。ポーランド侵攻以前のヒトラーは国際的にも一定の敬意をもって評される政治家だったのだ。組織や国家への忠誠をどうしても善いことと捉えてしまう傾向がわたしにはあって、それが身を置いた時代によっては、独裁者の巨大なエゴ・分離感に巻き込まれ、自分自身が虐殺の手先になってしまう、そういう危惧感というか、最悪のシナリオだとどうしてもそうなってしまう自分の宿命のように感じられるのだった。今回のナチ・ホロコースト集中月間は、一見、受身的なわたしの自我傾向が、最悪のシナリオ展開では、極端に加害的な行動に加担せざるを得なくなる、そのことを映画を使って直視することが着地点だったようである。当然それは赦しのために、である。

『あなたが為したと思っているすべての悪は一度も為されたことはないと保証されて、なぜあなたは大喜びしないのだろうか。あなたの罪がすべて無であることも、あなたが創造されたままに清らかで神聖であることも、光と喜びと平安があなたの中に宿っていることも、たしかに保証されている。あなたがもっている自分自身のイメージは、神の意志に対抗しきれるものではない。あなたはこれが死だと思っているが、それは生命(いのち)である。あなたは自分が破壊されていると思っているが、救われている。
 あなたが作り出した自己は神の子ではない。だから、その自己は、まったく存在していない。そしてその自己が行ったり考えたりしているように見えることは、すべて何の意味もない。それは善でもなく、悪でもない。実在していないという、ただそれだけのことである。それは神の子と戦うことはない。神の子を傷つけることも、その平安を攻撃することもない。それは被造物を変化させてはいないし、永遠の無罪性を罪と化したり、愛を憎悪に貶めたりしなかった。あなたが作り出した自己は神の意志に逆らおうとしているというのに、それが一体どんな力をもちえるだろうか。(奇跡講座 ワークブック編 P203)』

ホロコーストのような事象に「赦し」はふさわしいのかという疑問は、この世界を実在のものとする立場からは必ず出てくる。この世界が実在で、わたしたちの生命が肉体というならば、必ず、断罪することが正しいという結論になるのは当然だ。しかし、この世界が「罪」を実証するためだけに捏造された幻想だという蒼い本の主張を真実として受け入れるなら、我々の真の姿を思い出すためにも赦すことが正しい。

ところでさっき偶然知ったことだが、今日1月27日は、国際ホロコースト記念日だそうだ・・。

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