強さを見る

弱さは克服すべきもの。わたしは、そう信じて疑わなかったと思う。克服しているつもりでも、実際は抑圧されているだけなので、必ず投影されてしまう。すると目の前に「弱い人」とわたしには見える人が現れる。わたしは、その人が弱さを克服するために手助けせずにはいられなくなる。それを善いことだと信じて疑わない。実際は、自分の弱さを克服(抑圧)したように、相手にもそれをさせずにはいられないだけだが。わたしの自我/パーソナリティは、そんなふうに構築されている。しかし、わたしの目の前に現れた人のパーソナリティも、わたしと同じように構築されているとは限らない。

エニアグラムにはタイプ4という性格分類がある。タイプ4の人がしがちな発想には、次のようなものがあるそうだ。 『 わたしは、自分に価値があることを知っている。なぜなら私は独特で、他の誰とも違うから。私が特別なのは、人が自分をわざわざ助けてくれたから。人がわざわざ私の悩みに手を貸してくれるのなら、私は価値のある存在に違いない (*)』 。

このような発想をするタイプ4は、例えば、不幸な境遇や悲劇的な過去、慢性的な病気など「弱さ」に見えることを、自分の特別性のために使いがちである。自分は「特別に」困難な状況を生きていて、そのために「特別に」苦しい思いをして、「特別な」努力をしてきている。そんな自分に、手を貸してくれる人が現れるならば、自分はきっと「特別な」存在なのは間違いない。こうしてタイプ4は、他人の関心を自分に振り向けるために、自分の弱さを無自覚のうちに「武器として」利用するようになる。すると、どうなるか。本気で自分の弱さ、苦しさ、困難から脱出しよう、決別しようとしなくなるのだ。なぜならその「弱さ」のおかげで、人は自分に手を貸してくれて、関心を向けてくれるから。エニアグラムのタイプ2・3・4に属する人たちのモチベーションは、総じて、セルフイメージを制御して、他人の関心、注目を獲得することで、それが他のタイプよりも過剰になるそうだ。

弱さを投影して克服させようとしてしまうわたしと、タイプ4の人が組み合わさるとどうなるか。わたしは投影をやめなくなるし、タイプ4の人は本質的な意味で弱さから脱出しようとしなくなる。つまり自我の共依存が成立してしまうのだ。わたしはこのような経験を気がついたらしてしまっていて、思い返すだけでも4、5人はいた。いまはそういうことはなくなったけれど、うっすらこういう関係性が不健全でおかしいのだと気づいた時に、その関係性から手を引こうとしたら、相手が豹変して、後ろ足で砂をかけられ、被害者意識を掲げて思いっきり非難されたこともあった(タイプ4の名誉のために申し添えておくと、この記事で言及しているのは、タイプ4の中でも不健全な側に偏った人である。タイプごとにすべて、健全な側から不健全な側までグラデーションがある。当然、不健全なタイプ4と共依存的関係になりがちなわたしもまた不健全だった)。

弱さは克服すべきもので、誰もが当然そう考えるものだと信じ込んでいたわたしには、タイプ4のような発想をする人間は、全く想像の範囲外の存在だった。自分の自我/パーソナリティの構成ゆえに生じた盲点によって、相手のパーソナリティが客観的に見れなくなるのだ。多分、自我の共依存というのは、いろんな形式で、多かれ少なかれ起こるものだと思う。自分が何を抑圧し、何を投影しているのか、それが完全に自覚され、投影が回収され取り消されるまで、全く無自覚のうちに、他人と共依存性のある関係を築いてしまって、そのことに自覚がもてないのだ。

こういう不健全な関係性に陥りがちなことを漠然とは自覚してからも、わたしは「弱さ」というもの、弱い人間が存在するという認識を、今日の今日まで、完全に払拭してはいなかった。しかし、弱い人間なんて、いなかった。それが真実だ。神の子は神の力を誤用して、弱さに見えるものを演じているかもしれないが、それは選択、決断によるものであって、先天的に弱い人間など、存在しないのだ。この理解が自分のなかに生まれた時、他人に貼りつけていた「弱さ」の投影の残滓を、完全に回収して取り消せる、そう確信できた。わたしが見ていた弱さは、やはりわたし自身から生じたもの、わたしの罪由来のものだったのだ。それも全面的に。

『 共感するとは、苦しみを共にするという意味ではない。そのように理解することは、あなたが拒否しなければならないことである。それは共感についての自我による解釈であり、常に特別な関係を結ぶために使われ、そこでは苦しみが共有される。共感する能力は、あなたがその使い方を聖霊に任せる限り、聖霊にとっては非常に役に立つものである。そのやり方はかなり異なっている。聖霊は苦しみを理解しない。そして、それが理解不可能なものだということを、あなたに教えさせようとする。聖霊があなたを通して関わるとき、あなたの自我を通して他者の自我に関わることはしない。聖霊が苦痛を共にすることはない。苦痛の中に入って妄想を共有することで苦痛を軽減しようとするような妄想的試みによって、苦痛の癒しは達成されないと、理解しているからである。
 自我が用いる共感が破壊的だという最も明らかな証拠は、それが適用される対象が特定の者たちの中の特定の種類の問題に限られるという事実にある。そうした対象を自我は選び出し、それとつながる。そして自分を強めるためでなければ、決してつながることはしない。自我は自分に理解できると思うものと一体感をもち、そこに自分自身を見て、自分と同質のものを共有することにより、自分を増大させようとする。この策略を見誤ってはならない。自我は常に弱めるために共感するのである。そして弱めるとは常に、攻撃することである。共感するということが何を意味するのか、あなたは知らない。だが、次のことについては確信してよい。あなたがただじっと静観し、聖霊があなたを通して関わるに任せるなら、あなたは強さに共感することになり、弱さではなく強さを増すことになる。(奇跡講座テキスト T-16.I.1. ~2.)』

蒼い本を学び始めた当初もこの一節を読んだことを憶えているが、当時のわたしは「苦しみを共にして、何が悪いんだ!?」とすら思っていた。重症である(苦笑)。その当時からすれば、随分わたしの視界は変わり、この一節を文字通りの意味で読み、そこに書かれていることが正しいと思えるようになった。自分の赦しが進展してからでないとわからない文章が、蒼い本の中にはいっぱいある。無理してわかろうとしなくても、赦しさえ地道に積み重ねていれば、いずれ思い当たることに逢着する。興味深い本だなと改めて思った。

ところで、このブログで忠誠・隷属GuiltがわたしのコアGuiltだとは何度も書いてきたが、このGuiltの根っこにあるSinもまた、「弱さ」をその大きな要素としている。弱いがゆえに、自分は強い存在に忠誠を誓わなければ生きていけない、そう信じてしまいがちなのである。その同じ弱さを、「弱い」と見える人に投影して、手助けしようとしてしまう。だから、「弱い」と見えた人から、弱さのエネルギーの投影を回収して聖霊に取り消してもらうと、忠誠・隷属Guiltのいわば燃料であった弱さという罪もまた除去されてしまい、無関係に思えた忠誠・隷属Guiltまで更に解除が進むのだった。自我の構造とは、そのカラクリが明らかになる度に、すげーなーと呆れてしまう。


(*) 参考文献: 『 エニアグラム―あなたを知る9つのタイプ 基礎編 』

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