『 あなたから分離した兄弟、古(いにしえ)の敵、夜中に忍び寄りあなたの死を画策する者、しかもゆっくりと時間をかけて死なせようとする殺人鬼。こうしたことを、あなたは夢見ている。しかし、この夢の背後にはもう一つの夢があり、その夢の中ではあなたが殺人鬼であり、密かな敵であり、兄弟をも世界をも破壊し、その死骸を食らう獣(けだもの)になる。ここに苦しみの原因があり、あなたの卑小な夢の数々とあなたの実相を分かつ空隙がある。それは、あなたの目に留まらないほどの小さな隔たりであり、幻想と恐れが生まれ出た場所も、恐怖と往古の憎悪の時も、災厄の瞬間も、そのすべてがここにある。ここに非実相の原因がある。そして、それが取り消されるのも、ここである。
 「あなた」が、この夢の世界を夢見ている者である。それ以外にこの世界に原因はなく、これからもないだろう。無為な夢と同じくらい少しも恐ろしくもないものが、神の子を恐怖に怯えさせてきたのである。そして、自分が無垢性を失い、を拒否し、自分自身に戦争を仕掛けてきたと思わせてきたのである。その夢はあまりにも恐ろしく、あまりにも実在性があるものに見えるため、もっと優しい夢が彼の目覚めに先立たない限り、彼が恐怖の冷汗や死を恐れる悲鳴なしに実相に目覚めることはできないだろう。(奇跡講座テキスト T-27.VII.12.)』

なぜだかこんな本を読んだ。北九州で起こった連続監禁殺人事件に関する本である。マイティさんも有名人の洗脳事件の本を読んでいたが、わたしも気が滅入るこの鬼畜の所業のレポートを読む羽目に。もちろん赦しのため、癒しのためである。読みながら始終湧き上がってくる居たたまれない恐怖、嫌悪感、苦々しさ、やりきれなさを、ひたすら祈ることでやりすごした。動揺が起こる度に祈るので、なかなか読み進められなかった。

この幻想の世界の中では逮捕され、裁判にかけられ、死刑判決が下されたものの、この事件の犯人に対して、果たして「赦し」は適切なのだろうか、まして愛を送るとか、祝福するとか、意味不明にしか思えない。このサイコパスの主犯が行った被害者への精神支配は、人の弱みや負い目を徹底的につけこみ、嘘を積み重ねて罠をめぐらし、弱みや負い目を捏造して、それを受け入れさせて、どんどん精神的に屈従させた後、肉体的な拷問に取りかかり、正常な思考力を失わせ、恐怖で盲目に隷従するまで萎縮させ、更に支配を盤石にしていく。ごく真面目な市民の倫理感や道徳感をすべて逆手にとって利用する。相手を同じ人間などとは全く思っておらず、ただ支配し、搾取し、拷問し、殺していくモノ扱いなのだが、その殺し方も直接自分が手を下すことはせず、家族どうしで殺させていくという、血も涙もない卑怯卑劣さで遂行された。この犯罪のレポートを読んでいると、自分がつけこまれていくような痛み、恐れをありありと感じて、祈ることしかできなかった。

これを癒しのために、聖霊の知覚で見るとは、どうしたらいいのだろうか。この主犯を、神の愛に祝福されている同じ無罪の兄弟として見るにはどうしたらいいのだろうか。葛藤しかない。この犯人に愛を送ることは、まるで犯人に腹を見せて、利用してください、殺してください、と自ら進んで願い出ているような感覚にとらわれる。コイツを赦せば、自分が殺されてもいいって認めたことになる、それが自我の結論。愛を送ることが、自分が殺されることを意味する、考えてみれば、不思議な論理であるが、自我の砦というのは、こういう矛盾に満ちたトリックをつきつけてくるものなのかもしれない。けれど、この鬼畜を赦すことが、自分の中の何かを決定的に癒すために必要だとも、思えている。それを可能にするには、やはり信仰しかないのだろう。

『 優しく笑いながら、聖霊はその原因を知覚し、結果には目を向けない。それ以外にどのようにして聖霊は、原因を完全に見落としてきたあなたの誤りを、訂正することができるだろう。聖霊はあなたに、それぞれの恐ろしい結果を聖霊のもとにもってくるようにと告げる。それにより、一緒にそのばかげた原因を見て、共に少しの間笑うことができるようにする。あなたは結果に審判を下すが、聖霊はそれらの原因にすでに審判を下している。そして、聖霊の審判によって結果は取り除かれている。あなたは涙を浮かべながら来るかもしれない。しかし、聖霊が次のようにいうのを聞きなさい。「聖なる神の子である私の兄弟よ、あなたの無為な夢をよく見なさい。夢の中だからこうしたことが起こり得たのである」と。そして、あなたは聖霊の笑い声とひとつになった兄弟と自分の笑い声を聞きながら、聖なる瞬間を後にするだろう。
 救いの秘密は「あなたは自分でこれを行っている」ということだけである。攻撃の形の如何にかかわらず、依然としてこれが真実である。敵や攻撃の役割を誰が担っていようと、依然としてこれが真理である。何があなたが感じている苦痛や苦しみの原因に見えようと、依然としてこれが真実である。なぜなら、自分が夢を見ていることを知っている夢の中でなら、あなたもそこに登場する人影たちに対して、全く反応しようとしないはずだからである。彼らにはいくらでも好きなように、憎々しく狂暴にさせておきなさい。これが自分の夢だということを、あなたが認識しそこなったのでない限り、彼らはあなたにどんな結果ももたらし得ない。(T-27.VIII.9. )』

今はかすかな慰めにしかならないように思えるが、このようにテキストに書かれたことが真実だったらいいと思う。ほんとにそう願う。

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