能動性を支配する罪と罪悪

罪と罪悪という言葉は、蒼い本において核心的な用語であるにもかかわらず、さらっと説明しにくい言葉だ。この言葉にこめられた意味が、日本語の自然な語感におけるものとかぶっている部分もありながら、全くかぶらない部分もあり、また蒼い本特有の形而上学的ストーリーも背景にしていて、含まれる意味が幅広く、重層的なために、さらっと説明できないのだ。このため、旧ブログの頃からずっと、罪をSin、罪悪をGuiltとして書いてきた。日本語の地の文に英語がまざっていると読みにくいことこの上ないが、その違和感を利用して、この語が特有の意味内容を付与されていることに注意を促しているつもりだった。普通に罪と罪悪と書かれていれば、日本語の語感で読み流してしまい、全体として文章の意味が通じなくなってしまうからだ。とはいっても、SinとGuiltなんて英単語が日本語の地の文に混ざっていると、それはそれで読む気を失うこともあるわけで、なかなかに悩ましい。それに赦しの実践が進むにつれて、この罪と罪悪という言葉に付与されていた意味内容が、思っていたよりも更に広いものだったと気づいたりして、なおさら確定的な説明がしにくくなってしまう。悩ましい。

わたしはとにかく癒やされたかったし、そうでなければ人生がもはやこれ以上切り開けないという閉塞の中にあったので、蒼い本の形而上学に知的に魅了されてかまけている余裕もなければ、その形而上学に操を立てるつもりもなかった。癒しのために機能するかどうか、効果が実感できるかどうか、そのことを第一にしてきた。だから、実感も持てなければ、確認のしようもない蒼い本の形而上学については、知的に理解できたとしても、はぁ、そーなんですかー・・・と保留、仮説扱いにして、いつも実感のほうを優先してきた。自分で神から分離したという信念、それをとんでもない罪を犯したと捉え、罪悪感を感じ、そのことで復讐の神から罰を受けるという恐れ、という形而上学的ストーリーには、「わたくし、全面的に記憶にございません」と思うだけだった。しかし、形而上学的ストーリーと関係あるかどうかはともかくとして、普段の生活で恐れや罪悪感を感じるのは事実だし、それは通常、具体的な事柄と関連づけて体験される感情だ。これら実感レベルで切実な想念、信念、感情、フィーリングを取り扱い、癒しの手応えが感じられるかぎりにおいて、蒼い本の用語を利用してきた。その際、この罪と罪悪という言葉は、一貫して役に立つ言葉だった。

罪と罪悪、SinとGuiltは、いまやかなり思い入れの深い言葉になってしまったが、わたしの用語法は必ずしも蒼い本の用語法と、完全に合致してはいないかもしれない。概念体系における用語の正確さよりも、実感に対応しているか、赦し・癒しが進むか、を最優先にしてきたので、ちょっと用語法が独自なものになっていることもあると思う。特に、罪悪感ゆえに罰を予期して恐れが生じる、という説明にはピンとこなくて、わたしの実感では、罪じたいが恐れに感じられるので、ほとんどの場合、罪イコール恐れと捉えている。また、罪悪と罪悪感は、同じGuiltの訳語だが、この両者はかなり区別して使っている。実感としては、すべき・すべきでないという規範意識・信念が先にあって、それに背くことをしてしまった、あるいはそれに沿って行動できないでいる時、罪悪感が生じる。だから、予め抱えていた規範意識・信念を罪悪とし、その規範意識・信念をもって行動した時に体験する感情を罪悪感と呼んでることが多い。

恐れ・欠乏感・無価値感・痛み等から、なんらかの行動に向かう時、「~せずにいられない(衝動)」「すべき・すべきでない(規範意識)」「~に違いない(判断)」といった想念・信念を意識しながら行動する。この時、恐れ・欠乏感・無価値感・痛みなどを罪/Sinと呼び、「~せずにいられない(衝動)」「すべき・すべきでない(規範意識)」「~に違いない(判断)」といった想念・信念を、罪悪/Guiltと呼んでもいる。このような用語法のもとで、普段の自分の行動動機、行動に向かう能動性を眺めると、それが罪と罪悪に強力に支配されているのがわかる。というより、罪と罪悪以外の行動動機のほうが稀なのではないかと思える。

罪が恐れそのものに感じられるのは、自分の存在が破壊可能なもの、死ぬべきものだという根深い感覚、信念が恐れと直結しているからだと思う。破壊可能であることの証拠として、肉体が挙げられ、その肉体が自分だと信じている時、恐れは確定的なものとなる。蒼い本では「肉体は罪の象徴」と書かれていることがあるが、神から分離して個人となったという形而上学的説明からよりも、自分が危害を加えられ、死ぬべき肉体ゆえに恐れるという側面からの方が、「肉体は罪(≒恐れ)の象徴」という表現も実感としてしっくりくる。肉体は罪の象徴、という観点と、先ほどの、罪と罪悪が行動動機、能動性を強力に支配している、という観点とをかけ合わせると、自分のことを肉体≒罪だと信じるゆえに、自分の動機、能動性は、罪と罪悪に支配されるのは必然、という言い方もできる。ものすごく身近なレベルにこの話を適用すると、通常、大人は仕事に行って食い扶持を稼ぎ、家族がいれば扶養するが、その行動の動機に、全く恐れや欠乏感が存在してない人のほうが少ないのではないかと思う。なんといっても、肉体を維持することは、自分たちの生命を保つことであり、働けない、稼げない、お金がないとなったら、ヤバイ、と危機感が生じるだろう。その危機感は恐れや欠乏感、つまり罪から来ていると言ってもいいと思う。この日常的な例からも、罪と罪悪、行動動機・能動性、肉体の存在(肉体を自分とみなし、自分の生命は肉体だと信じること)は、密接に関連しているのが実感できると思う。

赦しという側面から、罪と罪悪の回収解除手続きについて書くことが多かったけれど、行動動機・能動性を罪と罪悪が支配していることと、肉体の存在・肉体との自己同一視との関係性が、ここのところホットなテーマだ。

(参照)
・罪と有罪
・SinとGuilt 再び
・「赦せない」とはどういうことか。

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