岩の上の教会

この期に及んで、わたしはまだ迷っていた。自分にとって現実的で、正しいと思えてしまう判断、しかし、聖霊にたずねるとそれは自我の判断だと言われている気もしてくる。わたしは自我の声を正しいと思ってそれを疑えないでいるのか、それとも聖霊の声が単に聞き取れてないから判断に迷うのか。同じ日、マイティさんは聖霊から具体的な行動を指示されたのだが、マイティさんの自我はそれに血の気が引くほど抵抗を感じて、実行しあぐねていた。聖霊の声かどうか確信をもてないでいるのがわたしの悩みなら、マイティさんは、聖霊の声は疑い得ないほどはっきり聞こえるのに、自我に同一化している部分のマイティさんにはあまりにそれが難題で、全力で拒絶したい内容であることが多く、聖霊の声と自分の現状とに乖離がありすぎて葛藤するのが悩みである。同じ聖霊の声にしても、悩みのポイントが違うのだ。

その日の終わりに、なんとか聖霊の指示を渋々遂行したマイティさんは、それでもその動揺が収まらず、わたしと二人してパッとしない状態だった。お互い愚痴っぽい会話をだらだらして1時間ほど経っただろうか、マイティさんが「こんなんじゃだめだ、ちゃんと聖霊にチューニングしなきゃ」と意を決したように気持ちをととのえ始めた。そこから急速に、マイティさんの発言が確信を帯び始めた。マイティさんによれば、マイティさん自身が確信をもってるのではなく、聞いたことを伝えてるだけで、ただ聞いている言葉の方が確信に満ちてるだけらしいのだが。

「 岩の上に自分の家を建てなければならない。 」

マイティさんはそう言った。これは聖書からの言葉なのだが、わたしはただふーんと聞いていた。そして続けて

「 being に faith を打ち立てるのだ。判断に迷うのは、fear の上に立って判断するからで、それは砂の上に家を建てるも同然だ。 」

マイティさんは、being つまり実存に、faith つまり信仰を打ち立てるということ、と言い直した。fear は恐れである。なんで急に英語なのかマイティさん自身訝っているのだが、わたしにはその英語の使い方がドンピシャで入ってきた。ここのところ関心事項だった、破壊され死んでしまう肉体と、不滅の心・霊(スピリット)・実存のテーマにストライクな表現だったからだ。ちなみに、蒼い本(公認訳)で「実存」という言葉は、being の訳語なのだ。実存と実在(existence)という似た言葉が近い場所で使われてるので、原文に当たって確認したから憶えていたのだ。マイティさん自身はあまり原文に当たって蒼い本を読むということはしてないし、being の訳語が「実存」だったなんて、知らないはずである。

『 祭壇とは信念であるが、とその被造物は信念を超えたものである。なぜなら、それらは疑問を超えたものだからである。神を代弁する声は、疑問を超えた信念だけを代弁する。それは、疑問を抱かずに「在ること」へのための準備である。神の国への信念が、あなたの心の中の疑念に攻め立てられている限り、により完璧に達成されているものがあなたには明らかではない。だからこそ、あなたはのために警戒していなければならないのである。自我は神の被造物に敵対して語り、それゆえに疑いを生み出す。あなたは充分に信じるまでは信念を超えていくことはできない。(奇跡講座テキスト T-6.V.C.7.2. )』

ここでは「在ること」も、「実存」と同じくbeing の訳語である。引用した節は、まるで聖霊の声に迷うわたしのことを描写しているかに思えた。

先ほどのマイティさんとの会話はそのまま続いていたのだが、使用された語の適切さに感心していると、マイティさんは聖書からの岩の上の家、砂の上の家の話を繰り返した。「家」の話はよく知らないが、岩の上って教会じゃなかったっけ?とわたしは思った。あとで確認したら聖書では別々の場所でどちらの言葉も使われていた。

being 実存にfaith 信仰を打ち立てるとは、岩の上に教会を建てることなのかぁ・・・。そのときである。急に何かのピントがカチッとあった。

「岩の上に教会を建てるって、このことかあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

息を呑んだ瞬間、自分の前方から、微細なエネルギーの大津波がすごい勢いでわたしの全身を駆け抜けていった。わたしは感動で呆然としていた。この言葉の意味を「いま」初めて知った。初めて、というのは、この人生だけではなく、すべての転生の中で、ようやく「いま」知った、という感覚だった。

                                                  つづく

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