輪廻(1):世継ぎ

輪廻転生という考え方がある。このブログでも輪廻の観点から論じた記事が幾つかあるし、蒼い本のマニュアル編にもこのテーマで一節が割かれている。わたし個人の体験では、明確に自分の過去世を思い出したとか、ヴィジョンがはっきり見えたということはない。ただ、この人生で体験のないはずの事柄について、異様な興味関心があったり、不可解な感情移入が生じる時に、過去世でなんかあったのかもしれないな、と想像するだけだ。マイティさんは、明確なヴィジョンをいくつも見ていて、はっきり自分の過去世として憶えていたりするのだけれど、それはまた別の話。

過去から現在、そして未来へと連なる直線的時間をリアルなものとして捉えると、自然に、現在の原因は過去にあるかのように思いがちだし、現在は未来へ向かって必ず進化、成長するものと思い込むかもしれない。しかし、蒼い本に拠るなら「原因」は常に今ここにあり、過去も未来も存在していない、となる。直線的時間が幻想なのに、このいまのわたしの人生とは別の人生体験がリアルに感じられるならば、例えば、パラレルリアリティ、並行宇宙にそれが存在するのかも、というファンタジックな仮説を立てることはできる。あるいはオーバーソウルといった、いかにもスピリチュアルな概念をもってくることもできる。仮説がなんであれ、いまこのわたしが体験している、このわたしが実人生で体験したことの無いはずの感情的リアリティをはっきり捉えるために、過去世というストーリーをあてがってみるのは有効だった。そうすることで、いまのわたしが実人生で体験したことのない感情的リアリティ、その背後にどのような信念があるのかが捉えやすくなるのだ。実人生の経験だけで考えると浮かび上がりづらく、捉えにくい信念構造が、過去世のストーリーを介在させることで、そういった信念はいかにして形成され得るのかも明確になり、納得しやすくなる。つまり、過去世ストーリーは、潜在意識に隠れている「現在の」信念を浮かびあがらせる手助けになるということだ。

この実人生からでは発生しようのない信念を、いま現在のわたしがなぜだか抱えている。これは事実だ。そして、この人生だけを踏まえて考えると、そのような信念が自分のうちに存在することじたい受け入れづらいし、クリアに捉えにくい。でも過去世ストーリーを介在させることで、いまの自分が潜在意識で現に抱えている信念をはっきりつかみだすことができる。

もう3年ぐらい前のこと、江戸東京博物館にマイティさんと一緒に訪れたことがあった。そこでの展示物に、どこかの武家の家系図があった。子孫が途中で途切れていたその家系図を見ていると、気持ちがひどくざわざわしてきて、近くにあったベンチに座り込んだ。もうそのまま博物館の見学を続ける気になれず、マイティさんに宿へ帰りたいと伝えた。まだ見学を続けたそうだったマイティさんに無理言って、宿に戻った。

ベッドに座って、展示してあった家系図のことを思い返していると、気持ちが高ぶってきて、自分が泣き始めているのがわかった。それが少し変なのだ。自分に「孫」ができなかったことを嘆いて泣いているのだ。自分に子ができなかったことを嘆いて泣いているのではない。このわたしに子はいない。だから孫ができるわけがない。孫ができずに泣いているということは、泣いているこの感情は、このわたしの感情ではない、そう考えるのが自然だった。泣いている時の感情は色んな想いが交錯しているのだが、一番強い想いは「情けない」だった。「孫」というより「世継ぎ」という言葉のほうがしっくりきた。いよいよ奇妙である。

家系図を見ていた時に、なにかに憑依でもされたのだろうかと思ったが、憑依と言うより共振という方が正しい気がした。もともと自分の中にあった感情が、あの家系図が帯びていたエネルギーによって引っ張りだされた感じだ。自分の中にあった感情とは言うものの、「世継ぎが生まれない」嘆きなんて、やはりこのわたしの感情ではないわけで、前世、あるいはオーバーソウルの感情なのかもと想像した。今生のわたしのものではない未浄化の感情を、このわたしが代理で嘆いて浄化している、そんなふうにも思えた。結局、3、40分はさめざめと泣いていた。

この奇妙な一件は、それっきり気にならなくなった。けれど、「子」がないことに罪悪感のような痛みが伴うのはその後も続き、そしてそれは明らかにこのわたしの感情だった。これは「孫」ではなく、「子」についての感情だ。

大人になれば、当然のように結婚して、当然のように子をつくるものだと、幼い頃はそう思っていた。けれど、自分がこの世界で生きることにいつまで経っても確信がもてず、子を作っても親として見せる姿がないという想いが先に立つばかりで、気がついたら子を作るのではなく、霊的な道への傾倒でそれどころではなくなってしまった。でもほんとうのところ、子が欲しいなんて、思ってもいなかったかもしれない。子を持たねばならないという、世間並みへの義務感と執着があるだけで、わたし自身は子を欲しい、子を育てたいなんて思ってなかった、そのことを認めるのに時間がかかっただけな気がする。すでに家庭を持つわたしの弟が、幼い我が子の動画を送ってきたりするのだが、それを見てわたしは、かわいいな、とか、将来が楽しみだな、と素朴な感想をもつこともなく、ただ「弟は責任を果たした」と乾いた感想をもつだけで、そんな自分てどうなのと思いもするが、でも結局それが正直な思いだった。

街を歩いていて、子連れの若い夫婦を見ると、かすかな痛みがまだ残るのが自覚された。子を望んでいないのに、子を持たねばならないと思い込んでるのは、考えてみれば少し変かもしれない。そしてふと気づいたのは、わたしにとって「子」とは、少し古臭い責任感を除けば、分離した個としての自分のコピー、似姿をこの世界に残すことで、分離した個としての自分に永遠性を与えようとする試み、ということだった。生まれて死ぬだけの肉片としての自分、分離した個としての自分が、その自己の永続性を願って、自分が死んでも生き残る自分の似姿を作ること。これは幻想への執着、分離した個への執着の一種に思えた。分離を望みつつ永遠も望むのは罪ゆえの発想で、だから痛みが生じるのも必然だったのだろう。「子」を介した幻想への執着で、少し迂遠なために気づきにくかったけれど。

「現在において」抱えている信念が、過去世ストーリーを媒介して明らかにされること。輪廻転生、過去世ストーリーの有用性はそんなところにあるのかなと思う。

『このコースが強調することは常に同じである。すなわち、今この瞬間に、完全な救済があなたに差し出されており、今この瞬間に、あなたはそれを受け入れることができる、ということである。それは今も、あなたの唯一の責務である。贖罪とは、過去からの完全な脱出や未来への完全な無関心と同一視できるものである。天国はここにある。それ以外の場所は存在しない。天国は今である。それ以外の時間は存在しない。このことに導いていかない教えはどれも、の教師の関心の対象ではない。すべての信念は、正しく解釈されたなら、このことを指し示すだろう。この意味において、あらゆる信念を真理とするのはその有用性だと言うことができる。進歩へと導く信念はすべて、尊ばれなければならない。これが、このコースが要求する唯一の評価基準である。これ以上は必要ない。(奇跡講座 マニュアル編 M-24.6. 輪廻転生はあるのか)』

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