愛の欠如

蒼い本では、神からの分離を「罪」と呼ぶのがその形而上学の起点だが、別の箇所では罪を「愛の欠如」と定義している。正直、この表現にはピンと来ていなかった。愛がよくわからないのだから、愛の欠如もまたぼんやりとした概念以上ではなかった。

『 罪は、「愛の欠如」(テキスト第1章・Ⅳ・3)と定義される。愛は存在するすべてであるから、聖霊から見れば、罪とは罰せられるべき悪ではなく、訂正されるべき間違いである。力不足、弱さ、物足りなさといった私たちが抱く感覚は、幻影の世界全体を支配している「欠乏の原理」への強い執着に由来している。そうした観点から、私たちは自分に欠けていると感じているものを他者の内にさがし求める。私たちが他者を「愛する」のは、自ら何かを手に入れるためである。実はそれこそが、この夢の世界において愛だと思われているものの正体である。これ以上大きな間違いはない。なぜなら、愛には、何かを要求するなどということはできないからである。(奇跡講座テキストP21 まえがき)』

投影対象に無防備に直面し、自分の想念・信念・感情・フィーリングを内観しながら、対象に投影されていた感情エネルギーを自らの罪=Sinとして受けとめ、聖霊に取り消しを祈り、罪を抑圧していた罪悪=Guiltが解除される。この回収解除プロセスが、長らくわたしにとっての赦しの手続きだった。罪は恐れ、痛み、恥辱、無力感といった不快なフィーリングとして自覚されるので、さっさと浄化したい、解消したいものでしかなかった。罪は悪者であり、肯定や受容に値しないもの、否定され、克服されるべきものだった。赦しの下準備を整えたら、罪が速やかに取り消されるよう、聖霊に善処願うばかりだった。

ところがここ数日ほど、「罪は、愛に値する。罪は愛のなかで溶ける。」というアイデアが浮かぶようになった。これは、いままでのわたしにはあまりない発想だった。確かに、自愛メソッドのような、自分を愛するアプローチ、インナーチャイルドセラピー的アプローチは、緊急措置的に何度か採用したことはある。でも罪はあまりに不快なので、「罪が愛をふり向けられるに値する」という発想に馴染めず、通常手続きとしては採用してこなかった。けれど上に引用したように、罪は「愛の欠如」として定義されている。今頃になって、この引用した定義が妙に響き始めた。

『自分はどういうわけか愛さないことを選んだに違いない。そうでなければ、恐れが生じることはあり得なかった、と自分に言いなさい。そうすれば、訂正の全プロセスが、贖罪を治療法として受け入れるというさらに大きなプロセスの中の一連の実用的なステップにすぎないものとなる。これらのステップは次のように要約できる。

これは恐れだと、まず知りなさい。
恐れは愛の欠如から生じる。
愛の欠如の唯一の治療法は完全なる愛だけである。
完全なる愛とはすなわち贖罪である。(T-2.VI.7. )』

赦しの手続きにおいて、フィーリング・身体感覚として捉えた罪を、それが愛の欠如であるがゆえに、愛を振り向けようと「決意」することで、明らかに聖霊の取り消しがより強力かつ迅速になった。わたしが罪に愛を振り向ける「決意」をすることが、聖霊という愛の蛇口を全開にする、そんな感じだ。あいかわらず、愛がどんなものかわからないにもかかわらず、愛に値するのだから、愛を振り向けようと「決意」することが、赦しを確実にするようだ。いつになったら罪がぜんぶ取り消されるんだろうと途方に暮れる想いに何度とらわれたか分からないけれど、愛の蛇口を全開にするという決意で神の愛を後ろ盾にすることができ、最終的には必ず赦しに成功するという心強さがこれまでになく湧いてきている。他人に見出す罪も、自分の内に見出す罪も、必ずそれは愛に値し、愛のなかで溶けて癒される。なんで今までこんなことに気づかなかったんだろう。でもそのくらい罪は不快で、悪者でしかなかったから、取り消し、浄化の対象ではあっても、愛を振り向けるという気持ちの余裕は、どうしても持てなかったんだな、きっと。

この「決意」は、自分が無条件に愛に値すると認め、他人もまた無条件に愛に値すると認めることであり、つまりそれは、自他に無罪性を例外なく認めることである。この無罪性が完全に回復した時、自他の分離はリアルでなくなり、全一性が回帰するはずである。

は赦すことはしないとはいえ、赦しの土台は神の愛である。恐れは咎め、愛は赦す。そうして赦しは、恐れが生み出したものを取り消し、心が再び神を自覚できるようにする。だからこそ、赦しは真に救済だと言えるのである。それは、幻想が消え去るための手段である。(W-pI.46.2. )』

これはレッスン46の「神は愛であり、その愛の中で私は赦す。」の一節である。愛を振り向ける「決意」はわたしがするが、愛は神からやってくる。神の愛なら無限だろうから、愛の供給量には全幅の信頼をおけばいい。当然、どんな罪も蛇口全開で流れ出てくる愛の前では溶けてしまうだろう。神の愛の後ろ盾は心強く、赦しはこれまで以上にはかどる、そんな手応えを感じている。

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