聖霊は行動を導くのか?

「聖霊は行動を導くのか?」。この問いに答えるには注意を要するが、ひとまず「聖霊は行動を導く」という結論を答えとして、このブログでは進めていく。聖霊は心を導くのであって、行動の導き、メッセージは奇跡講座の核心ではないし、原因と結果という基本法則を犯すことにもなるから、聖霊は世界に介入しないのが鉄則、というJACIMさんのDVD「だけを」見て拙速に判断すると(DVD参照:Ⅲ19:33~15:30、Ⅲ4:30~1:47)、「聖霊は行動を、実質、導かない」という結論に落ち着いてしまうかもしれない。では、何度も引用した次の箇所を見てみよう。

『真実を言えば、あなたは自分の考えることにこそ責任がある。なぜならあなたが選択権を行使できるのはこのレベルにおいてのみだからである。あなたの行うことは、あなたの考えることから生じる。(T-2.VI.2.6. )』

このように、行動は思考の自動的帰結である。そして、思考のレベルで聖霊か自我かどちらかが選ばれる、あるいは、心は常に聖霊か自我かどちらかに導かれている。聖霊か自我かのどちらかに導かれた思考は、行動へと「自動的に」帰結する。自動的に帰結する行動じたいを、聖霊が再び導いたり導かなかったりするのか?というのは、蒼い本の見地からすれば、そもそも着眼点と問いの立て方がズレているのである。蒼い本なら、思考は聖霊か自我かどちらかを常に選んでいる、行動は思考の自動的帰結、以上!、となる。あえて行動に着目して、行動を聖霊は導くかどうかと問うならば、「間接的には、導く」というのが正しい答え方だろう。行動は思考の自動的帰結なのだから、間接的にいえば、行動も、聖霊に導かれたものか、自我に導かれたものか、常にどちらか一方でしかないからである。

そもそも、聖霊は行動を導くのか、導かないのかという問いの立て方じたいが、自我の世界観の中で作られたものである。自我の世界観では、肉体としての自分が世界の中を動きまわって、世界に変化を起こし、悪い状態を良い状態にもっていくことに価値を見出して生きている。良い状態に向かうために良い判断に導かれた行動が必要であり、その良い判断を聖霊にしてもらえたら鬼に金棒じゃないかと期待する。当然、「聖霊は行動を導くのか?」という問いの立て方にとても価値があるように思える。聖霊の導き⇒良い判断⇒良い行動⇒良い結果⇒満足というわけである。しかし、「良い結果」は世界=幻想に属している。世界=幻想の中で満足することは、自我の目的であって、聖霊の目的ではない。聖霊は、世界という幻想から目覚めさせ、神へと帰還させるために、世界という幻想を用いながら、わたしたちを導く。神の中にしか真の満足はないからである。

しかし、である。わたしたちは、世界=幻想から目覚め、神へ帰還する決断を聖霊と共にしたからといって、その瞬間、ボンッ、と一足飛びに神へと舞い戻れるわけではない。蒼い本の実践者はみんな、熱心に学び実践する間も、判断し、行動し、展開する現実に翻弄されながら生きるのである。つまり、実践している間も、幻想を見続けているのである。神からの分離の瞬間、ありとあらゆる自我のシナリオが発生、展開したけれど、それと同時に、そのすべてのシナリオに対して聖霊の訂正が与えられた。わたしたちが、心を聖霊に導かれながら生きる幻想の日々は、この聖霊が訂正を与えたシナリオを生きている状態である。このシナリオは「赦しの夢」とも呼ばれるが、いまだ幻想の範疇である。けれどそれは神へと続く「幸せな夢」とも蒼い本では表現されている。幻想の内部では、わたしたちはいまだ肉体だし、行動するし、結果に左右されるが、聖霊によって訂正を与えられたシナリオについての描写は、結構、あたたかで、やさしい。

『過去、現在、未来において起こるあらゆる事柄とすべての出来事が、あなたの幸福だけを目的とする一なる存在により優しく計画されているということを、もしあなたが知っていたなら、あなたに受け入れられないものなどあるだろうか。おそらくあなたはの計画を誤解してきたのだろう。は決してあなたに苦痛を与えたいなどとは思わない。だが、あなたが歩んできた一歩一歩にの愛に満ちた祝福が輝いていたことを、あなたの防衛が、あなた自身から隠していた。あなたは死のための計画を作り上げたが、はあなたを優しく永遠の生命(いのち)へと導いた。(奇跡講座ワークブック W-pI.135.18. )』

『時間とは、手品のように巧妙なからくりであり、広大無辺なる幻想である。その中では、まるで魔法のように、人影が現れては去っていく。しかし現象の背後には、変わることのない一つの計画がある。その台本もすでに書かれている。あなたの疑いを終わらせる体験が訪れる時も定められている。私たちは旅の終わった時点からふりかえって、その旅を見ているだけであり、もう一度自分たちがその旅をしていると想像し、過ぎ去ったことを心の中で反芻している。(W-pI.158.4. )』

聖霊に心を導かれて自動的に帰結する行動とは、聖霊がわたしたちを神に導くための「変わることのない一つの計画」の一部であり、「その台本もすでに書かれている(The script is written.)」。自我の世界観で「行動」とは、まだ起こってないことを引き起こし、それで引き起こせる結果を、なるべく現在よりも良いもの、自分の思う理想や期待の方へと持って行こうとする、そういう未来への試みだと認識されている。しかし、神及び聖霊の計画においては、心だけが導かれるものであり、そこでの「行動」とは、すでに定められたシナリオの一部であって、すでに起こった過去なのである。ここまでくると「聖霊は行動を導くか?」という問いが、そもそも少しピントがずれていたのだと明らかになる。

だがしかし、である(2度目・笑)。わたしの個人的体験からすると、明らかに聖霊に行動を導かれた経験がいくつもあるのだが、あれにはもう少し違う説明を加えられないものだろうか・・。

(たぶん、つづく)

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