心霊的

これもまた確認しようがないことの続き。先月マイティさんと会った時に滞在した宿でのこと。夜中目が覚めて、ふとベッド脇を見ると、ひとがうずくまっている。うつむいているので、髪しか見えない。その髪も、髪じたいが独立して勝手に動いているように見えて、まるでメデューサのようである。マイティさんはとなりで寝ている。ひとがうずくまっているのは、マイティさんの寝ているのとは反対側のベッド脇だ。当然、部屋にはわたしとマイティさんしかいなかったはずである。

わたしはそのうずくまっている人を見て、ああー、この人にも無罪性を見るのかぁ、と咄嗟に思った。同じ次元に生きてる生身の人間だけが無罪性を見る相手じゃなくて、すでに別の次元に移行してる人も対象だったかーと、なぜか「やられたなぁー」という感想を抱きながら、しばし放心した。そのまま天井の方をむいて、自分にはどうしていいかわからないので聖霊に祈った。そしたら、なんとなく天井を突き抜けて、空に向かって、はしごのような、あるいは火の見やぐらのようなものをイメージしていた。自分にできるのはここまでだなと思って、あとは自分の肉体なり、そのはしごのようなイメージなりを聖霊に使ってもらうことにした。そもそも浄霊の仕方なんか知らないわけだから、聖霊にいいようにしてもらうしかないのだ。すると、はしごの先端のほうがやさしくぼんやりと光っていった。どうやらそこをうずくまっていた人に登って行ってもらう算段らしいが、登っていく様子は特に見えなかった。

・・と、ここで一度目が覚めたのかもしれないし、そのまままた寝入ってしまったのかもしれない。よく憶えていない。睡眠中の夢とは違った質感の、半覚醒状態の知覚で、アストラル次元の知覚と呼ぶものだったかもしれない。いままでにも何度もこういうことはあった。半覚醒状態の知覚だと、まわりの風景はほとんど変わらないまま、いるはずのないものがそこにいたりするのだ。ただ浄霊じみたことをさせられたのは初めてだった。そして再び寝入ったのだが、今度は通常の睡眠中の夢のなかで、さっきうずくまっていた人が夢に現れた。今度は普通に顔も見える。見知らぬ女性だ。30代後半の、わりと地味な感じ。夢のなかにマイティさんもいたのだが、なぜかマイティさんの顔は、女性ヴォーカルグループPerfumeのかしゆかの顔だった。髪に白いものが少し混じっており、年齢もわたしたちの実年齢よりも更に5歳ほど上の雰囲気のかしゆかだった。実際のマイティさんは全くかしゆかには似ていない。わたしは特にPerfumeのファンでもなく、かしゆかのファンでもない。夢のなかでわたしは、そのうずくまってた女性に対するなんらかの「役割」を自分が果たす!と強く主張していたようである。その時、実際にこの寝言を言ってたらしく、あとで起きてからマイティさんに指摘された。

朝。はっきりと目が覚めてから、現実なんだか夢なんだかわからない体験だったなあ、とぼんやり思い返していた。ためらいがちにそのことをマイティさんに話したら、マイティさんのサイキックスイッチが入った。ふだんはカルマ的な理由からスイッチオフになっているのだが、時折、不意にスイッチが入るのである。「あ~、繁華街で連れてきちゃったねえ。。飛び降りちゃった人だね~。」と平然というのである。夢だったと思いたかったが、なんかマイティさんのほうにヴィジョンが入ってきてしまい、ただの夢ではなかったみたいでダメ押しである。

体験については以上である。やはり確認しようのない事柄である。この手のことは主観的な体験記憶以上のものではないし、再現性が少ないので、誰かに客観的な証拠をもって示すこともできない。ただ、普段とは違う意識状態でも、ちゃんと無罪性を見る意志を保つことができ、聖霊に完全に祈り、ゆだねることができたという手応えは疑いようもなくはっきりと残っているので、そのあたりは俺よくやってるじゃんとちょっと自画自賛した。

『 道を進むにつれて身につくかもしれない新しい能力のように見えるものは、非常に役立つものともなり得る。聖霊に捧げられて、聖霊の指示のもとに使用されるなら、それらは価値ある教具となる。このことと、それらの能力がどのようにして生じるかといった問題は、無関係である。考慮すべき唯一の重要な点は、それらがどのように使用されるかということだけである。そうした能力自体を最終目的とするならば、それらがどのように行われようと、進歩を遅らせる。また、それらの価値も、過去に為された業績や、「目に見えない」ものとの珍しい交信や、からの「特別な」寵愛などといったことを証明することの中にあるのではない。は特別扱いをしない。また誰も、すべての者が使えないような力をもってはいない。(奇跡講座 マニュアル編 二十五 「心霊的」能力は望ましいことであるか P140)』

わたしもマイティさんも、不思議な能力や現象を、どちらかというと偏見に近いくらいに見下しているところがあるかもしれない。ただその一方で、二人ともわりと不思議な体験をするほうではある。スピリチュアルな分野に踏み入った人は多かれ少なかれそういう体験はあるだろう。わたしは、この世界で人類が努力によって積み重ねてきた一般的な知見やテクノロジーのほうには興味があるが、不思議現象や不思議能力は、たしかに「本物」と思える事例や人物はいるものの、基本的には胡散臭い人が群がる胡散臭いジャンルだと思っていて、赦しが必要なくらいには偏見があるかもしれない。マイティさんは元々サイキックな人だけれど、こういう能力をありがたがって飛びつく人に対してやはり胡散臭さを感じている。体はこわしたものの、一般社会で普通の仕事で稼ぐことを健全なことだと思い、それに自信をもっているせいもある。

不思議な能力というのは、得てして「魔」が入りやすい。最初はわりとまともだった新興宗教の教祖が段々とおかしくなっていったり、悟ったと言われていた有名な霊的指導者がやはり魔に取り込まれて奇妙な顛末をたどったりと枚挙にいとまがない。でも、それは魔の被害者というわけではない。たんに残存していたエゴを魔が増幅するだけで、もともとそういう欲求をもっていただけなのだと思う。サイキック能力者当人だけでなく、そのような人をもてはやす人たちも特別性を求めていて、何もしゃべってないのに、知らないはずのことをズバッと指摘されたりすると、一気に心酔して盲信してしまう人も少なくない。しかし、サイキック能力と、蒼い本でいうような霊的成熟とは、必ずしも関係がない。だから、知らない過去を見抜かれたり、未来を予言されてそれが当たったりといったことをありがたがったりすると、双方して魔を助長し増幅することにもなる。こういうこともあるので、サイキックな能力を持つ人たちの修行とは、サイキック能力の増進のためというより、それを個人的な欲得や野心のために利用してしまうエゴの衝動を超克するためだったりもする。

『 この世界の物質的なものごとにはもはや価値を認めなくなった者たちでさえ、依然として「心霊的」能力には欺かれることがある。世界の物質的な贈り物への執着がなくなったので、自我は深刻に脅かされている。それでも自我には、この新しい誘惑のもとで勢いを盛り返し、策略により力を取り戻すだけの強さが残っていることがある。ここでの自我の防衛がとりわけ巧妙というわけではないにもかかわらず、多くの者たちはそれを見抜いてこなかった。だが、欺かれたいという願望が残っていれば、欺くことは容易となる。そうなると、その「力」はもはや真の能力ではなくなり、信頼して使うことはできない。そのような個人は、その「力」の目的について心を変えない限り、ほぼ必然的に、不確かな自分の「力」を、さらなる欺瞞によって支えようとするだろう。(奇跡講座マニュアル編 P141、第5段落目)』

「欺かれたい願望」とは少し皮肉っぽくも聞こえるが、自我の衝動というのは、完全に神に回帰するまでは、息を潜めつつ常に追いかけ続けてくるものだと思っておいたほうがいいのだろう。ただ、わたしやマイティさんのような心霊的なものへの軽蔑や忌避は、別の意味で、それらに特別性を認めてしまっていることにもなるのだと思った。足が早かったり、力持ちだったり、ご飯を作るのが上手だったり、仕事が有能だったり、そうしたありふれた能力と同等のものとして見ていれば素直に聖霊に使ってもらうこともできる。けれど偏った軽蔑や忌避は、聖霊がその目的のために利用できるのに、それを自ら妨げることにもなるし、偏った軽蔑や忌避がふとした拍子に反転して、その能力に溺れてしまうようなことも起こり得るかもしれない。どんな能力であろうと幻想は等しく聖霊に捧げる姿勢が必要なのだと思った。

『 人が発現させる能力は、すべて善きことにつながる可能性をもっている。このことに例外はない。そして、その力が珍しくて意外なものであればあるほど、その潜在的有用性も大きくなる。救済はすべての能力を必要としている。世界が破壊しようとするものを、聖霊は回復させようとするからである。「心霊的」能力が悪魔に呼びかけるために使われたこともあるが、それは単に、自我を強めるために使われたという意味である。だが、ここにはまた、聖霊のために働くなら希望と癒しのための一つの大いなる経路となるものがある。「心霊的」能力を発現させた者たちは、ただ自分で自分の心に課していた制限のいくつかが取り外されるままにしただけである。増大した自由を幽閉の強化のために用いるなら、彼らは自分自身にさらなる制限を課すことにしかならない。聖霊はこうした贈り物を必要としている。それを聖霊に、そして聖霊だけに差し出す者は、キリストの感謝を胸(こころ)に抱いて進み、キリストの神聖な視覚も遠からず訪れるだろう。(同P141、第6段落目)』

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