罪を見ていないことの励まし

以下、マイティさんが今日アップしたブログと呼応する内容になります。

赦し、贖罪のプロセスで、自分の内面を直視し、自分が投影している対象に無防備に直面し、SinとGuiltの投影を特定しては、それを回収・解除することは、いままで何度も述べてきた。このSinとGuiltは、潜在意識に抑圧され、外部世界・他者に投影されているので、普段何もしなければ、意識の表面にのぼってくることはない。これをひっぱりだして、意識にのぼらせるにあたって、わたしとマイティさんの関係性は非常に効率的に機能してきた。お互いのSinとGuiltが全く別のところにあって重なっていないので、相手の知覚の歪みに気づきやすい。相手が抱える否認や自己欺瞞、認識上の盲点について、指摘しやすいのだ。

しかし、Sinというのは極度に不快なフィーリング、エネルギーである。恐怖、痛み、恥辱、おぞましく、筆舌に尽くしがたい闇のエネルギーである。だからこそ反射的に抑圧・投影されて、自分に感じなくさせている、触れないでいいようにしている。それをわざわざ触れさせるように互いに仕向けるのである。贖罪を志している者どうしだからいいものの、そうでない人が他人にそんなこと強制したら、一生の恨みを買いかねない恐怖や恥辱を与えることにもなる。わたしとマイティさんは、相手の傷口に手をつっこみ、塩を塗りこみ続けるような日々を過ごしてきたところもあるけれど、それは別に相手を傷つけるためではなく、そうすることで抑圧されてるSinを意識にのぼらせ、癒しにつなげることができると知ったからそうしてきたのだった。

これまでこのSinとGuiltのひっぱりだし、あぶりだしの効用という点で、わたしとマイティさんの関係に言及することが多かったけれど、実は、もうひとつ重要な側面があった。わたしとマイティさんでは、SinとGuiltの位置が重なってない。わたしでいうと、肚、下腹部あたりに、生きる力の無さ・生きる意欲の無さと呼んできたSin(罪)のエネルギーが凝縮されて潜んでいる。それを克服するためにGuilt(罪悪)を使って、歪んだかたちで行動化して、職業生活に支障をきたしていた。しかし、マイティさんには、わたしの肚にあるSinがない。ないだけでなく、非常に活発なために、彼女は行動的でフットワークもよく、仕事が大好物みたいな日々を過ごしてきた人だった。わたしの知覚からすると、仕事人間がわたしの生きる力の無さ・生きる意欲の無さを知ったら、徹底的に糾弾し、非難し、嘲笑するだろう、と思い込んでしまう。罪のあるところには罰を予期するものだからだ。しかし、マイティさんの肚は活発ではあっても、そこに罪を抱えていない。罪がないから、他人に投影することもない。つまり、罪を見れないのだ。だから、わたしが自分の肚に抱えてきた罪、そこから生じてくる認知の歪み、思考パターンを「不自然なこと、不思議なこと」だとは思っても、罪があり非難すべきもの、とマイティさんは思うことがなかった。このことに、わたしはずっと救われてきたのだと気づいた。

もちろん、共同作業だった赦し生活のなかで、マイティさんはこれでもかというぐらいわたしの肚にある罪に鋭い指摘を加え続けてきた。それはわたしには非常に苦渋、恥辱に満ちたものではあったけれど、それでも癒しにつなげる必要なプロセスだとわかってもいた。そして彼女は、わたしが抱える罪ゆえの知覚の歪みを「不自然、不思議なこと」とは見ても、罪があると見なかったことで、わたしはGuiltで自分を裁いて防衛したり克服したりという、これまで反復してきた振る舞いをせずに、赦しだけにフォーカスし続けることができた。わたしが自分で罪に感じていることに、彼女は罪を見ない、見ることができないということは、赦しのための励まし、見守りの効果をもたらしていたのだ。

SinとGuiltを直視、直面するというところばかりに重点をおいて述べることが多かったけれど、お互いのキャラクター上、自分が自分に罪を見ている部分に、相手が全く罪を見ていない、見ることすらできない、という関係性は、赦しにおけるもうひとつの重要な側面だったと、いまになってはっきり自覚し、大きく救われ、助けられてきたのだと感謝するほかない。

自分が赦すという立場において、「例外なく無罪性を見る」ということを今年中盤あたりからテーマにしてきたけれど、それが相手に与える効果については、それほど着目してはいなかった。けれど、わたしとマイティさんの関係において、抑圧している罪と罪悪について互いに指摘し合いながらも、そこに互いに罪を見ていなかった、そこに罪があると信じていなかったことの救いこそが、無罪性を見ることの効果、助けでもあるのだと、見え方が立体的になった。相手の罪を見ていないこと、赦していることで、相手もまた、自分の罪を赦しやすくなる、その罪を信じなくてもいいのだから、ただ聖霊に渡せばいいのだと思いやすくなるということだ。これは無罪性を見ることの、相手へのサポート、「与えること」の一側面なのだと思った。

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