ファミリーカルマ

カルマという言葉がある。定義はいろいろあるだろうが、このブログでは自我(エゴ)、あるいはSinとGuiltの構成パターンと呼んできたものと同等として理解されたい。カルマとは一般的には個人が各々で抱えているものとして捉えるが、世代間で連鎖するカルマ、血脈のなかで受け継がれるカルマもあるだろうなと思う。それは親子の葛藤、一族の葛藤として現れ、共同で取り組むカルマとなる。ファミリーカルマと呼んでもいい。

親からの経済的自立は一定の年齢に達すると始まっていくのが社会的慣習だが、親からの精神的自立というのは、必ずしも自動的に起こるものではない。精神的自立というと誤解されるかもしれない。ファミリーカルマからの離脱、と言ったほうが適切だ。ファミリーカルマからの離脱は、意識的な霊的実践が行われないかぎり、多分、一生起こらないままで終わる。

親が子を育てるプロセスで、親の価値観、親の自己概念(セルフコンセプト)は、否応なく子の人格へと練り込まれていくことになる。子はその魂がもっている固有の性質を1歳や2歳ぐらいですでに表し始めるが、同時に親の影響を受けることも避けられない。価値評価を含む親の視線は、子の人格に練り込まれ、成長してからも無自覚にその価値観で自分を評価し、物事を捉えるようになるが、子はそのことに全く無自覚である。反抗期を経て、表面的には親とは違う価値観を築いて生きていくように見えるが、人格の核心部分に影響を与えた信念バイアスは、ほとんど手つかずのままである。この信念バイアスが、ファミリーカルマであり、親も自分がそれを子に与えたことに無自覚である。なぜなら親もまたその親から無自覚に受け取ってしまって人格を形成したからである。

赦しによって、SinとGuiltの投影が回収解除され、自己概念が溶解していく過程で、多分わたしは、このファミリーカルマの核心ともいうべきエネルギー群に突き当たり、とうとうそれが溶解し始めている実感がある(ちなみにその最後のひと押しとなる出来事が、母との間で一昨日起こったのだが、やはりと言おうか、霊的にインパクトのある出来事や精神的変容は、新月の手前で起こるようだ。そして今日が新月である)。表面的には善意をまとった振る舞いなのに、実質的には真っ向からわたしの意志を踏みにじり、わたしの尊厳を無視するような振る舞いに感じられ、わたしは猛烈な怒りと脱力感に投げ込まれた。以前なら全くその不快さが自分には感じられないまま、恩義を感じて、いつかは恩返しせねばとすら思っていたような出来事だ。いわゆる「ダブルバインド」なのだが、この言葉じたいは20年ぐらい前に知ったのに、自分がそれにがんじがらめになっていた構造が完全に見通せたのは、おとといの話である。なんとか赦しの方向へと心を向け、聖霊に祈り始めた。わたしには自分が被害者であり、母は加害者に見えているのだが、その当の母は善意のつもりであり、その行動はおそらく母がその親から受け継いだ自己概念から生じてきているのだ。実はどこにも加害者はおらず、被害者だけがいる。それが自己への攻撃という、自我の本質なのかもしれないし、ファミリーカルマという世代間連鎖するエネルギーの正体かもしれない。共に赦され、共に癒されることの必要性を感じた。わたしは母を赦し、自分が癒やされると同時に、母が癒され、母が解放されることもまた必要なのだと悟り、それを祈った。わたしたちが親子という自我の偽りのつながりではなく、無罪性において一体なのだと観たい、聖霊の知覚で母を観たい、そう祈っていたら、泣けて泣けて仕方なかった。

この一件で、赦しと与えることの統合が祈りのなかで成就するのだという感触が生まれた。「与える」ことの理解が、また一段、深まった気がした。自分の不快さだけが解消されれば赦しが完了していくように思っていたし、それも過渡的には真実なのだが、兄弟と共に赦され癒やされなければ、無罪性における全一を観ることはできないし、それで初めて与えることが受け取ることとなり、赦しがこの幻想世界における愛の表現として意味を成す。「兄弟から自分に為されたとあなたが思っていたことは、起こってはいなかったと認識する」こと、この赦しの定義の不可解さが、また一歩ゆるんで、実感がもてるように思えた。

ところで、わたしの場合、Sinの回収は下腹部あたりで起こり、不快さや恐怖、恥辱として感じられ、チャクラでいうと1・2番あたりであるため、生存・自立・生きていく上での自己信頼・生きる意欲や意志に支障が生じていた。マイティさんはSinの回収が主に胸から喉にかけて、チャクラでいうと4・5番あたりで起こっており、特有の痛み、恐れ、硬直を感じ、それを度を越した抑圧で乗り越えようとして、人間関係に独特の支障が生じていった。こうしたことは、マイティさんとの膨大な対話時間のなかで明らかになっていったのだが、わたしとマイティさんの人格はあまりに違っていて、霊的実践の同志でなければ、宿敵になりかねないレベルでお互いのことを理解、共感できない。だからこそ、お互いの特性を照らしだすこともでき、ファミリーカルマもまたはっきり指摘しあうことができたのだと思う。マイティさんとの関わりのなかで、自我の構造というのは複雑で、ほんとにひとそれぞれに違っていて、安易な共感や理解を許さないものであり、アドバイスもまた安易にはできず、聖霊にしか自我取り消しの道は示せないのだと思い知らされた。

・・・ここまで書き終わった時、急に、頭にあるメロディが流れ始めた。
CDも持ってるはずだが、もう随分聞いてないBUMP OF CHICKENの曲。
『天体観測』はよくカラオケで歌ったものだが、頭に浮かんだのはそれとは別の曲。
メロディは思い出すが題名が思い出せない。当然歌詞も覚えてない。
「ファミリーカルマ」なんて日記を書き終わったところだったから、
もしかしてと思って検索してみたら、やはり『カルマ』だった。
頭に浮かんだメロディは、『カルマ』という題名と合致してなかったし、
歌詞がこのような内容だったとも全然覚えてなかった。
聖霊は時々こういうことをする。

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