依存 / 先導

これは蒼い本界隈に限ったことではないけれど、霊的サービスを売買する関係性を眺めていて気づくのは、自我の典型として、教えてもらいたがる・依存したがる・従いたがる自我(以下、依存自我と呼ぶ)と、教えたがる・先導したがる・従わせたがる自我(以下、先導自我と呼ぶ)があって、それが共依存的に関わりあっていて、表向きは霊的サービスの売買関係という形をとることだ。この手の関係性は、性質が対極の自我が相補的、共依存的に関わることで、お互いの利害が一致する、お互いがいい気分になれるという点では、何も問題がない。ただ、蒼い本のいう自我の取り消しという点では、この関係性が硬直したまま存続すると、双方の自我が強化、再生産されてしまう可能性がある。

わたしの場合、特に生存・生活を左右する会社などの組織で、強い忠誠・隷属傾向が自分にあることは何度も書いてきた。それが自分の自我、パーソナリティーの核心部分にまで及んでいて、その解除のために何年にも渡って赦しの作業を続けねばならなかった。だから、従う・依存する性向というのは、生半可でない深度まで自我に穿たれているものだと体験からも思う。これと同様、いろいろ観察していると、依存自我だけでなく、先導自我もまた、やはり生半可でないレベルで自我の傾向として深く刻み込まれているものだと思うようになった。

共依存関係は、過渡的には互いに有益なこともあるので、一律に否定すべきものとは思えない。あくまで自我の取り消しという点でみれば、最終的にその関係は解消されなければならないだろうというだけである。依存自我の側からすれば、その関係性から最終的に自立心が養われればいいわけだ。しかし実際は、これと決めた立派な先生に教えてもらっている安心感、その立派な先生に認めてもらう承認欲求充足感、その立派な先生の権威を借りて自分も人に影響力を行使したり、勧誘したりする時の権力欲求充足や達成感、ほかの集団への特有の排他・排斥性など、信者心理といってもいいような心理が存在するようである。これらすべて「学ぶ」「従う」「教えてもらう」という大義名分に隠れてはびこる自我の心理である。時には、その関係性でこっぴどい目にあったり失望させられたりして、ようやく自分で考えなきゃだめだ、自分で立たなきゃだめだと思い知るかもしれない。人間、自分で痛い目に遭わなければ分からないことも確かにあるからだ。しかし、自我に穿たれたこの依存性、従属性というのは、そう簡単には抜けない。

一方、先導自我の方は、もう少し込み入っている。先導することへの執着、欲求は、わたしには実感から説得力をもって語れないのだが、ともかく、自分が先導する側にいて影響力を行使できる優越感や自己過信、か弱く劣った相手を自分が導いて恩義をかける対等ではない愛情、その他いろいろあるのかもしれない。例えば蒼い本だと、自分が通読すらしていないのに教え始める人は後を絶たない。当然、蒼い本の一筋縄ではいかない難しさのせいで、いくら自信ありげに振る舞おうと、教えたがる人の理解の乏しさが際立ってしまうのは避けられない。わかってないものを教えたがるのだから、そこには蒼い本の目的をただ成就したいという願いより、自分が蒼い本を使って先導する側に立つことに、無意識に重点が置かれていると想像することは難くない。もちろん、物事には教えながら学ぶことが有効なケースもあるが、兄弟に無罪性を見るという対等性・一体性が主眼の蒼い本において、自分がまだよくわかってないものを教えなければならない切迫に常時さらされることは、自らの自我に切り込み、気づいていくスピードを逆に遅くすることにもなる。自分が生徒より常に先んじていなければならないという自分に課した負荷は、自我由来のほとんど無意識なものだろうが、無理がかかると容易に嘘や欺瞞、空疎な自己演出へと陥ることもあり、しかもそれに全く自覚がない、ということもあるだろう。

『 あなたが私と共に考えるなら、私はあなたと共に教え、あなたと共に生きる。しかし私のゴールは常に、最後には、教師を必要とする状態からあなたを解放することである。これは、自我志向の教師のゴールとは正反対である。自我志向の教師は、自分の自我が他の自我たちに与える影響を気にするため、彼らとのやりとりを自我保存の手段の一つと解釈する。もし私がこれを信じていたなら、私は教えることに献身できてはいないだろう。また、あなたもそれを信じている間は、献身的な教師にはならない。(奇跡講座テキスト T-4.I.6.3.)』

更に、先導自我が、この共依存関係から収入を得ようとした場合、関係性を解消する動機が生まれづらいため、まんまと先導自我が温存され続けてしまうのも厄介だ。クライアント側が依存自我をもっている場合、学習が進んで、自立心が養われてくると、先導自我側の収入という面では都合が悪くなる。「生活のため」という伝家の宝刀は、なかなか疑いづらいものだ。つまり、お金である。わたしは株式相場でお金そのものを追っかけていたこともあるので、お金じたい、お金を追うことにじたいに特に嫌悪感はない。普通の意味で人生をエンジョイするなら、お金が有用なシーンは数限りなくあるのも事実だ。あくまで、自我の取り消し、という蒼い本の目的に立った場合にのみ、無自覚のうちにお金を目的とすることが、ただでさえ自覚しにくい自らの先導自我が温存される結果になりかねないというだけだ。お金を目的にすることの危うさについては、マニュアル編の「支払いの問題」でも指摘されている。

先導自我にしろ依存自我にしろ、目の前の事象をひとつひとつ赦していくうちに、ゆっくりと解きほぐされ、取り消されていく性質のものではあるが、霊的な歩みを進めるために取り結ばれる教師と生徒という関係性が、皮肉なことに自我の共依存を招き、自我の取り消しを妨げてしまう事態は、避けがたく起こってしまうようである。厄介なのは、先導自我、依存自我、双方共にその関係を「善意」のもとに取り結ぶ点である。誰かをジャッジして否定的な気分になるときは自我だエゴだとわかりやすいが、こういう自己概念の中核に根ざした先導傾向・依存傾向というのは、それが発現する時、表面意識ではほとんど「善意」であり「良かれと思って」やっており、その人にとってライフスタイル、日常そのものを裏打ちしている。このため極端に自覚しにくく、盲点になりがちで、気づいたとしてもどうしていいかわからない、どうしてもそうなってしまう、という重力圏、磁場のようなものだ。だからこそ、先導するのは聖霊であり、依存する対象も聖霊だ、という枠組が重要なのである。それは、祈りのなかで聖霊との関係が育まれ、自分の内側に信仰を打ち立てていくような営みである。兄弟はまず赦す相手であり、その無罪性のなかに一体を見る機会として互いに出会う。それは相手が教師であったり、生徒であったりしても、同じことである。

わたしは、7年ほど前、初めて蒼い本の勉強会に参加したことがあったのだけれど、その会の運営方式は、幹事持ち回り制で、毎回、司会が変わる。料金は場所代のみを割り勘。幹事(司会)は場所取りをして、蒼い本の中で自分がテーマにしたい場所を予習して、司会進行する。初参加の人には荷が重いので、会に慣れてきたら幹事を担当してもらう。初めて参加した勉強会がこのシステムだったのは、非常に幸運だったし、すばらしかったと思う。参加者は一定の自主性をもって蒼い本に臨まなければならなくなる。まだ参加者のほとんどが学習を始めたばかりで、誰も教えられるようなレベルになかったこともあるが、みんなであーでもない、こーでもないといいながら、手探りで学習し、対等な関係で参加できた。たしかに、神秘体験などを体験したような人もいて、そういう人の発言がリーダーシップ的に機能することもあったけれど、基本、対等、フラットな関係性だった。

フラットな関係のメリットがなんだろうと考えると、自主性と、正直さを保てるところかな、と思う。もし主催者固定で参加費をとって、主催者が教師的な立場を取り続けるとなると、参加費を払うほうはどうしても受け身で、なにかいいこと教えてもらおう、正しいことは何か教えてもらおう、という姿勢になりがちかもしれない。一方、教師の方はお金を受け取っている責任上、いろいろな質問に正しく答えるプレッシャーみたいなものを無意識のうちに背負ってしまうかもしれない。それには功罪あるだろうが、もしそれが職業教師のようになってしまうと、体験的にまだ答えられないはずの質問に無理して答えてしまったり、自分の影響力や説得力を維持するために、自分は霊的に向上し続けているという優位性を無意識のうちにアピールし続ける羽目になるかもしれない。心を正直に見つめ、場合によっては誰かに弱音を吐く必要もある蒼い本の実践上、自主性と正直さ、というのはものすごく大事なことだが、会の運営システムや教師と生徒という関係性が、それを妨げる危険性も内包するということだ。

「与える」というテーマに本格的に入って行く前に、依存自我と先導自我の度し難い根深さ、その共依存性、及び、生徒と教師という関係性の、自我取り消し目的に照らした際の否定的側面に一度言及しておく必要があった。自我について分析的なことを述べたてるのは、わたしにとって赦しにはならないので控えるべきものだが、やはりどうしても一度整理しておく必要があると思えたので、書いてみた。

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