霊的成長の売買

蒼い本を背景にセラピーを提供するような人が、お金の授受に関してどのような心構えを持つべきか、マニュアル編、精神療法に「支払いの問題」として一節が設けられている。「医者よ、ヒーラーよ、セラピストよ、教師よ、汝自身を癒しなさい」という呼びかけにもあるように、この節の対象者はセラピストだけに限定されていない。おそらく、蒼い本の実践者すべてに対して、お金の扱いについてある種の指針を示している節だとわたしには思える。

素朴な消費者の観点、例えばスーパーでのお買い物シーンを想像してみる。お肉やお魚、卵や野菜などが目に入り、お値段を確認し、お財布と相談して、購入するかどうかを決める。お肉もお魚もそれがどんなものかはだいたいわかった上で購入する。たしかに家に帰って調理してみたら、思った以上に鮮度が悪くて失敗したと思うかもしれないから、店頭での目利きも必要だが、それでも買ったものから得られる効用がどんなものか概ね把握した上で、購入・支払いに踏み切るわけである。

ところが霊的商品(?)だとどうだろう。例えば、蒼い本。本じたいなら、モノとしてわかりやすい。お値段、テキスト編5400円である。ひとによって高いと感じるかもしれないし安いと感じるかもしれないが、本はモノのかたちを取っているのでわかりやすいし、もし必要なければ誰かに売ったりあげたりすることもできる。ところが、これがセラピーやセミナーとなると、支払うお金と引き換えにどんな効用が得られるのか、だんだんぼんやりしてくる。

霊的商品にかぎらず、教育サービスというのは、得てして消費者の側は立場が弱くなりやすい。塾や予備校に行ったら、それだけで頭がよくなって、勉強ができるようになるわけじゃない。結局、お前が勉強しないから成績があがらないのだ、更には、お前の頭の悪さじゃどうしようもない、って言われたらぐうの音もでない。それをなんとかするのが教師の仕事だろう、と開き直れるならまだいいが、一方、教師だってやれることとやれないことはある。やる気にさせる教え方や、わかりやすい教え方、いろいろ工夫することはできても、当の本人がそもそも勉強しないことには、教師だってお手上げだ。

それでも数学や英語を教えるなら、教える内容=サービスはまだはっきりしてる。ところが蒼い本だとどうだろう。なにせこの本のゴールは神、一歩ゆずって平安である。漠然としすぎである。お肉やお魚ならまだしも、神。どう目利きし、値踏みしたらいいんだ。当然、霊的サービスの消費者・利用者は、自分が何に対して支払おうとしているのかぼんやりしたまま、思い込みや期待だけで購入に踏み込むのだろう。蒼い本に関していえば、その本の内容を完全にわかって、それを体現して教えている人というのが想像しにくい。マニュアル編の「直接、神に到達することはできるか」によれば、神に直接到達している自覚が続いていたら、肉体が維持できないそうである。肉体を維持できなくなった人にお金を払うのは異次元の難しさである。

このようなわけで、蒼い本の教育サービス(?)に関しては、教わりたいと思う人と、自分はある程度教えられると自負・自認する人が、金銭を介して関わることになる。そこで何がしかの学習の進歩はあるだろうし、利用者もなんらかの満足が続くかぎり、サービスを利用し続けたいと思い、あるいは途中で利用を停止することも当然あるだろう。つつがなくサービスと金銭の取り交わしが行われ、双方円満であることもあれば、買って損したと思うこともあるかもしれないが、それはこの世の中ではありふれた光景だ。

しかし、蒼い本の「支払いの問題」という節では、お金に関して、交換取引・売買のルールに馴染んだわたしたちには全く異質な「支払い観」を提示してくる。蒼い本を愚直に実践すると、果たしてそれは現実的なのか?、生活していけるのか?、社会のなかで適用できるのか?と訝しく思うしかない教えをいくつも提示してくるが、この「支払いの問題」もそのうちの一つだ。蒼い本の実践を徹底していく時、わたしたちの生活とは切っても切れないお金というものを、従来とは全く違う姿勢で取り扱わないと、実践じたいがいずれ停滞する、そのようなことをこの節は言っているように思えるのだ。

このテーマはいまもわたしは手探りで書いているので、「声」シリーズど同様、シリーズ化することにした。だからあちこちに論点が飛びながら続いていくことになると思う。

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