自刃の意味

マイティさんと映画を観てきた。『日本のいちばん長い日』。昭和二十年、玉音放送に至るまでの、終戦か徹底抗戦かのせめぎあいを描いた歴史ドラマである。戦争モノだが、この映画に誘ったのはわたしではなくマイティさんの方である。このブログでは何度も戦争についての言及があるが、それはわたしのエゴ・パーソナリティが戦争という社会現象になぜか投影が多いせいだ。けれど、今年の2月に「アメリカン・スナイパー」を観て以降、長年続いた戦争への関心、過度の感情移入が、潮が引くようにゆっくりと薄れてきていたので、戦争のテーマも自分のなかではそろそろ終わりなのかなと思っていた。そしたら、マイティさんの方からこの映画へのお誘いである。

今年は終戦から70周年で、安倍首相の談話が出されたり、安全保障関連法案が国会で審議されていることもあり、テレビでも例年以上に戦争関連の話題が多かったそうである(わたしはテレビ持ってないので、雰囲気がわからなかった)。マイティさんはそれが否応なく目に入ってきて、色々イラつくことが多かったらしい。イラつくけど、彼女は特に戦争や日本の歴史に詳しいわけじゃない。高校生の時は、日本史の時間は寝てたという。あまりに何も知らないので、戦争についての映画や本にいくつか触れてみた今夏、この「日本のいちばん長い日」という映画にも興味がわいたらしい。マイティさんに誘われてなかったら、たぶんわたしは観てなかった映画かもしれない。邦画はあまり観たいと思うことがないので余計そうなる。

で、映画の感想である。端的にいうと、すばらしかった。日本人はみんな観たほうがいい( 言っちゃった )。先の戦争については、日本人のなかでも色んな見方、捉え方があるだろう。でも、どんな意見でもいいから、映画を観ることで自分の住む国の成り立ちについて何か思ったり感じたりする、そのことじたいが大切なことだと思う。特に若い人ほど観たほうがいい、そんな映画だと思った。とはいえ、マイティさんが映画館の座席を見渡したところ、平日のせいもあってか、50代、60代、あるいはそれ以上の雰囲気の方が大半だったとのことなので(わたしは周りを見回してなかった)、自発的に観てみようと思うのはやっぱりそういう年齢層になるのかもしれない。わたしとマイティさんはもう少し若い世代なのだが、わたしに至ってはハンカチで目から出る汁を拭うのに忙しく、嗚咽を歯を食いしばってこらえていた。動揺が収まるのにエンドロールがあと2周分ぐらい欲しいなんて、初めて思ったことだ。感情移入しすぎで「お前はいつの時代生まれだよ」という有り様である。

映画の内容や戦争のことについて言及しだすときりがなくなるので、あくまで蒼い本に関連する事柄にとどめたい。エゴの傾向として、わたしは思考センターであり、またコアGuiltとして忠誠・隷属Guiltが長らく懸案だった。マイティさんはパワーセンターである(エニアグラムでは、正しくはガッツセンター・本能センターと呼ばれる。パワーセンターという語はマイティさんの造語であり、パワーへの中毒性を表現するために、あえてこのエントリーではそちらを使っている)。この分類はエニアグラムによるものだが、しっくりくるのでこれを使う。センターが違うと、同じ映画を観ていても、感情移入しているポイントが違ってくる。映画のなかで、終戦間際、陸軍大臣だった阿南惟幾が自刃するのだが、この場面の受け取り方が、わたしとマイティさんでは、ずいぶん違っていた。

マイティさんのパワーセンターというのは、パワー、つまり「力」を非常に重視し、肉体の行動に力点があり、パワーじたいが敬意の対象である。イケイケドンドンで、思いついたらすぐ行動、常に行動は青信号、あまり後先のことは考えない、動いてさえいればどうにかなる、そんな傾向がある。マイティさんは、なぜ男に生まれていないのか自分で不思議なくらい、発想がマッチョなのである。クソがつくくらいマッチョである。つまりクソマッチョである。だから、パワーという点では肉体的にも社会的にも弱い立場になりがちな女性という体に生まれついていることじたいが、すでに葛藤であり、赦しの課題になっている。しかも虚弱体質ときている。皮肉なことに、家系的にはアスリート遺伝子があり、マイティさん以外は丈夫で、スポーツマンだったりするのだが。

そんなマイティさんは、映画のなかの、若手陸軍将校の暑苦しいくらい好戦的な勢いに、まともに感情移入してのめり込んでいた。わたしは、冷静な戦況把握や主君への忠誠という点から戦争を捉えようとする傾向が強いので、あの軍人特有の肉感的な好戦性、攻撃性には、実はあまり感情移入できない。そして、阿南惟幾陸軍大臣の自刃のシーンは、まさにわたしとマイティさんのエゴ・パーソナリティの違いが、シーンの受け取り方の違いにはっきり現れた。阿南陸軍大臣の自刃によって、これで戦争は本当に終わりなのだというメッセージ、本土決戦を主張する陸軍将校たちのその暴発せんばかりの勢いを自らの切腹によって完全に押しとどめる意志を、マイティさんは「肉感的、直観的に」受け取っていた。パワーの頂点にいる大臣の自刃に、dignity(尊厳、威厳)を感じ、自分たちの抑えがたい徹底抗戦の意志・衝動をも、とうとう放棄せねばならなくなったと悟るのだという。

映画のなかで阿南陸軍大臣は、徹底抗戦を主張して突き上げてくる陸軍の部下たちと、敗色が濃厚になり、いかに終戦工作を進めて日本民族の存続に注力するかで、板挟みになっていた。終戦に向けて尽力せよとの昭和天皇の聖断が下り、なおさらその板挟みの葛藤は激しく、いかに陸軍の暴発を抑えこんで、終戦に持ち込むかに苦悩しているシーンが描かれていた。阿南大臣が自らの切腹に込めたメッセージは、確かに本人でなければ本当にはわからないが、マイティさんが受け取ったメッセージはおそらく正しいのではないかと思われた。戦争についてあれこれ調べてきたわたしの理解よりも、戦争の歴史には無知だというマイティさんが、そのエゴ・パーソナリティのタイプゆえに肉感的に受け取れたメッセージのほうがリアリティ、説得力があった。ネットをぱらっと調べたところでは、田原総一朗さんが、阿南大臣の自刃は、ああしなければ陸軍を押しとどめられなかったのだろう、と述べている記事があったが、マイティさんがそれを「肌感覚で」理解しているのが、わたしには驚きだった。

わたしにとって陸軍トップの自刃は、忠誠を誓う大将、リーダーの喪失であり、方向感の喪失である。しかし、マイティさんにとって、陸軍トップの自刃は、自分たちの抑えがたい好戦性、死ぬまで止まらない前進意欲をあえて強制停止せよとのメッセージ、峻厳なる意志・命令だった。大将が終戦を受け入れ、その責任をとって自刃し、大将を喪失して終戦を悟るのと、自刃という峻厳な意志(それじたいパワーの表明だと、マイティさんは言う)に触れることで自分たちの抑えきれない戦意を冷却せざるを得なくなるのとでは、全く違う体験である。映画の中で、クーデタを首謀した一人の井田中佐は、阿南大臣の後を追って自害すると主張するが、阿南大臣は井田中佐に往復ビンタを食らわせ、お前は生きろ、と怒鳴りつけた。これはわたしの知覚だと、大将への忠誠の証として自らも後を追うと主張し、それを制止されるのは大将の情けのように受け取ってしまうが、マイティさんによると、軍全体にブレーキをかけるパワーの表明として自刃するのだから、死ぬのはトップひとりで充分であり、下位の者が自害するのは、そのメッセージ性をぼやかすことになるからだと解釈していた。また、阿南大臣の自刃が、玉音放送(一番の権威、パワーの頂点たる天皇の意思表明)に先立ってなされなければならなかったのも意味があることだと解釈してた。わたしの知覚では、そこにあまり注意が行ってなかった。おそらく、わたしとマイティさん、どちらのタイプの軍人もいただろうと思うが、エゴのタイプによって歴史の受け取り方じたいに質的な違いが生じるというのは、興味深かった。

戦後、なぜ戦争がこのような結果になってしまったのかを振り返る書物が大量に書かれた。この「日本のいちばん長い日」の原作者である半藤さんは、ほとんど一生をそれに費やしているご様子だ。ただ、長きに渡って過去を調査したり分析したりする作業は、エゴタイプとしては、思考センターが意欲をもちそうな分野である。思考センターゆえに、戦争の実態の一側面を見逃し、肌感覚では理解することもできないことがあり得るのではないかと、今回のマイティさんの件を見ていて思った。よく陸軍の暴走やその精神至上主義が史家によって批判されることがあるのだが、あれはパワーセンターのエゴから見ると、別に精神主義というわけではなく、自分のエゴの力学、エネルギーのうねりをただそのまま言葉にしているだけなのだと、マイティさんはいう。暴走と批判されるが、パワーセンターは、そもそも基本、終始走り続けるものなので、それを暴走と言われましても、という感じだそうである。それで一国が傾いたから事態は極めて深刻なのだが、明治維新以降の富国強兵的な雰囲気のなか、日清・日露の戦争に勝利し、パワーセンター型の人間が幅を利かせるようになっていったのは、想像に難くない。また、終戦後、思考センター型の人間は、戦史を丹念に調べて歴史から教訓を汲み取ろうとしたかもしれないが、パワーセンター型の人間は、戦争は終わったか!仕方ない!なら次は日本の復興だ!経済戦争だ!と、次の行動に突進していっただろうと、マイティさんが推測したのも妙に説得力がある。終戦直後は多くの人が食っていくのに精一杯だったのもあるけれど、元軍人が実業家や政治家として頭角を表していった事実も確かにあるのだ。歴史を編む人間は、必ずしも歴史を担った人間ではない。軍人による回顧録もたくさん残されてはいるのだが、自分の過去を回顧し、歴史観を述べるのと、歴史家が過去を検証するのとでは、また違ってくる。さまざまなエゴ・パーソナリティがせめぎあって歴史は展開していくわけだが、その理解、史観すら、エゴ・パーソナリティによって制限されてしまい、歴史の評価じたいが変わってしまうというのは興味深い洞察だった。これは、歴史から教訓を学ぶことには、エゴ・パーソナリティゆえの限界がつきまとい、愚かであってもひとは同じことを繰り返してしまい得るという絶望的なことも示唆する。結局、歴史を学んだり、制度や政策を改善することを越えて、赦しによってひとりでも多くの人がエゴを取り消し、平安を体現しなければ、この幻想世界での仮初めの平和もまたおぼつかないだろう。蒼い本のブログとしてはそう結論づけたいと思う。

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