不条理さの原因

先月の「赦せません案件」以降、赦しに対するスタンスを再検討する羽目になった。「無罪性」というのがどういうことなのか、改めてわからなくなったのだ。赦しにまつわるこんなブログを書いていると、つい赦しの優等生を装って、こんな苦しいこと、ひどいことがあった、でも赦せた!という展開をたどろうとしてしまう。こんなひどいことがあった、そして赦せなかった!赦す気にもなれなかった!としか書けない状況に陥ると、そもそも自分は、なんで赦そうとしていたんだろうと、急に方向感を喪失してしまったようだった。

いままで、憤りが激しくて、でも赦さなきゃとは思ってて、そのジレンマで、一晩中眠れず食事も喉を通らなくなったことが、少なくとも3回ある。先月の件はそのうちのひとつだが、わたしにとって眠れないというのは、ものすごくまれなこと、特別なことだ。すごく寝付きがいいし、よく眠るので、不眠がちなマイティさんにはよく羨ましがられ、時に呆れられる。

遭遇した出来事は、人が死ぬような大それたことでは全くなく、些細なことだった。けれど、わたしにはあまりに不条理で、理不尽に思えて、赦せない相手の態度や言動が、当初意味がわからなくて、頭が真っ白になったものだった。こういう人間がいていいのか、こいつはそもそも人間なのか?、というくらいのわけわからなさだった。

しばらく時間が経って、ほとぼりが冷めてみてようやく、自分が過剰に憤った理由がわかってくるのだが、自分が生きてきたなかで、一般的にも絶対に正しいだろうと信じこんでいる価値観・信念(≒Guilt )、自分が生きていく上での基盤になっている価値観・信念、それをあっさり踏みにじる人間が現れたために、その価値観・信念が揺るがされて、わけがわからないまま、あふれるように憤怒がわきあがってきて、なのに赦さなきゃならないのか、というジレンマが生じ、圧倒的に相手が間違ったことをしているのに、なぜ自分が赦さなければならないんだ、という苦悶に投げ込まれる。相手は間違った場所であぐらをかいたまま、自分だけがアイデンティティの崩壊にも似た価値観・信念の放棄を強いられなければならない、その不条理、理不尽さへの強烈な抵抗。

憤怒が薄れて今振り返ると、赦しの対象となった相手は、一般的な目で見ても、やはり弱く、幼稚で、自己中心的な人物ではあったと思う。そういう人間は、自分が間違ったことをしていても、そのことを指摘されるとそれを受けとめられず、被害者ヅラするものである。そして、正しいはずのわたしのほうをまるで加害者のように非難し始めるのだ。逆ギレである。相手の言動だけで意味不明で頭が真っ白になっているところに、逆ギレしてくるのだから、わたしは、なにか人間ではないものに遭遇したような感覚になって呆然としてしまう。しかし、相手が弱く、幼稚で、自己中心的ゆえに理不尽な態度を取ったとしても、憤怒の本質的原因はやはりわたしの握りしめてきた価値観信念にあったことは、認めざるを得なかった。そして、その価値観・信念がいくら一般的に正しいものに思えようとも、自らの平安のために役立っていないのもまた明らかだった。

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