休息の場所

赦すことを標榜する蒼い本のブログで、「赦せません。確定。」と高らかに宣言してしまったら、しばしブログに書くことがなくなった。当然の帰結である(苦笑)。赦そうとする意志が赦せない想いに拍車をかけるという、未体験の奇妙な状況で、わたしは何もできなくなってしまった。あとは、自分のなかで勝手に起こることをただ眺めているだけだった。そういえば、赦せません確定が起こったのは、やっぱり今月の新月だった。新月アタック、いまだ健在。数日、食事をすることも忘れがちで、どうしても減らなかった体重まで減った。赦せませんダイエット。嫌だ、そんなダイエット。ともかく半月経って、ようやくいろんなことがほどけて、視界が回復してきた。

何もできないけれど、相手を裁き、攻撃する想いに巻き込まれがちな意識を、IAMに着地させ続けていた。アドヴァイタ方面では、いろんな教師が、いろんな言い方で伝えているテクニックだ。今回、意外にこれが効果をもたらしてくれた気がする。何もできないときですら、とりあえず平静を保つのに役立った気がした。気のせいかもしれないけど。意識というのは、どのみちどこかに焦点を合わせているもの、どこかに着地せずにはおれないものだ。想念とフィーリングが全面的に裁くことへ動員されている状況下で、唯一、凪いでいる場所はIAMだけだった。

実は、このテクニックが機能しないところに追い込まれて、わたしは、祈りを、聖霊を選んだのだった。つまり一度放棄した手法なのだ。あの当時は、いくらIAMとかPresenceとかいっても、まだまだコントロールの想念、Guiltの想念に無自覚に同一化していて、だから、聖霊にすがる、祈る、という振る舞いのほうが、明渡しとして効果があった。けれど、今回は、そのような振る舞いすら、裁きの嵐に飲み込まれてしまい、文字通り何もできないという状況で、残っていた意識の着地先がIAMというだけだった。

蒼い本のなかでは、『アブラハムの生まれいでる前より、われは在るなり(Before Abraham was, I am) 』と聖書からの引用がある(奇跡講座テキストP78)。イエス様が神殿の前で高らかに宣言し、民衆から総スカンを食らって、石を投げられそうになるシーンの言葉である。IAMの真意を踏まえていなければ、このイエスさまの言明は、全く意味不明である。アブラハムは、イエスさまよりずーーっと昔に生まれた、イスラエルの民の祖であり、そのアブラハムより前に、俺、いたんだけどね、としれーっと宣言しちゃったら、涜神ものである。それはともかく、蒼い本には、このIAMについて、さまざまな比喩で表現されている。でも、ただ言葉でIAMといったところで、それは新たに観念的対象物ひとつ付け加える危険を生むにすぎないからか、ことさらそれを強調することは蒼い本ではしないようだ。

赦そうとすることすら、赦さない想いに拍車をかけるという、何もできない状況下で、自然とIAMにサレンダーが起こったのは、よかったといえばよかったのかもしれない。

『 何かをするには肉体が必要である。だから自分は何もする必要がないと認識するなら、あなたは自分の心から肉体の価値を退けたのである。ここに、数世紀分の努力をすり抜けて、あなたが時間から速やかに脱出できる開かれた扉がある。これが、今すぐに、罪がすっかり魅力を失う道である。なぜなら、ここでは時間が否定され、過去と未来はなくなっているからである。何もする必要がない者に、時間は必要ない。何もしないとは休息することであり、肉体の活動が注意を要求しなくなる場所をあなたの中に作ることである。この場所に聖霊が訪れ、そこにとどまる。あなたが忘れるときも、また、肉体の活動が再びあなたの意識を満たすようになるときも、聖霊はそこにとどまり続ける。

 そうしたときにも、この休息の場所は常にそこにあり、あなたはそこに戻ることができる。そしてあなたは、外側に荒れ狂う嵐よりも、その中心にあるこの静けさのほうを、自覚するようになるだろう。あなたが何もしない場であるこの静けき中心はあなたと共にあり続け、あなたに任せられた忙しい活動のさなかにも、あなたに休息をもたらすだろう。なぜなら、この中心から、肉体を罪なく使う方法が、あなたに指示されるからである。肉体が不在であるこの中心こそが、あなたの自覚において肉体を罪なきものに保つものである。(奇跡講座テキスト P512上段)』

何もする必要がないというより、わたしは単に何もできなくなっただけだったが、それでもここに書かれてあることは、以前よりずっと信憑性が高いものに感じられる。

( 1:15:04~ Before Abraham was, I am )

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