伏線

蒼い本における「赦し」というのは、別に相手に恩を着せるためにやっているわけではなく、自分の投影に気づいてそれを手放すことが大きな割合を占める。SinとGuiltの投影回収解除という呼び方を「赦し」という言葉の代わりに使うことがこのブログで多いのは、赦しの実践のなかで体験することが、「回収解除」と表現するのが一番わたしの実感に沿っているからだ。

通常、知覚は、対象のなかに見えているもの・感じているものが、対象じたいの属性だと信じるようになっている。けれど、「投影が知覚を生じさせる」という蒼い本の原理に照らすと、対象のなかに見えているものは、自分のうちにある属性であり、それが投影されて知覚されている、ということになる。だから、たとえば、特定の誰かに嫌悪感が生じて仕方ない、誰かのせいでこんな気持ちにさせられた、と信じるような状況でも、それは自分のなかの自覚されていない何かが投影されているから、となるわけで、つまり、相手のなかに見えているものは自分のなかに既にある何かだ、ということになってしまう。そして、このことをあらゆる事象、対人状況において例外なく適用することが、赦しの実践の大半を占めるのだと思う(抑圧、乖離、自己欺瞞というのは複雑怪奇で頑迷なものなので、それを解きほぐして自らの潜在意識に隠れていたものに気づくには、聖霊のもたらすアイデアに助けられながら、その時々で柔軟に対応していかねばならず、機械的にやればいいというものではないが、そのことはここでは触れない)。

人間関係を赦しという観点から眺める時、蒼い本に取り組むずっとまえから存在していた人間関係が、赦しのプロセスにおいて、かなりハイレベルというか、厄介な取り組みになることが多かった。つきあいの長い相手ほど、赦しが厄介だということで、一番つきあいの長いのはわたしには親ということになるが、それ以外にもつきあいの長い人はいた。つきあいがそれほど長くなくても、集中的に関わったひとたちで、いざ赦しの対象となったとき、意外と投影が濃くて驚いたりもしたけれど。

赦しという言葉を使うと、憎悪や怒りなどネガティブな感情の絡む人間関係を思い起こしがちだし、実際、そういうケースも多いのだが、わたしの場合、厄介だったなあ、何度も何度も断続的に赦し続けねばならなかったなあ、と思うケースのほとんどは、その関係性の大半においては、良好に思えていた人間関係、相手が特に悪いなどと自分でも思っていなかったような人間関係だった。わたし特有の無自覚な抑圧傾向がそういう状況を招いたのだと思うけれど、なかなかその仕組みに気づくのが厄介なものもあった。

そういった関係性がいざ赦しの対象として照準を向けられた時、その投影されている感情エネルギーの濃厚さ、膨大さに、我が事ながら驚いてしまう。蒼い本では前世という概念は幻想の一種としてそれほど重視されていないが、何転生にも渡る因縁なんだろうなと理解したほうがしっくりくるほどの、そういう重くて、気づきにくい投影がいくつもあった。赦しを実践するずっと前からこの人生で積み重ねてきた関係性が、まるで、最終的に赦しによって昇華されるためにひっそり育まれてきた伏線であるかのような、そんなふうにも思えるのだ。

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大切な妹のように、ずっと見守っていたい人がいた。時々相談に乗ったり、雑談をしたりもしたが、それほど関わりがあるわけでもなく、かといって連絡が途絶えることもなかった。けれどある日、もう関わることを控える時期だよ、という想いがふわーんふわーんと自分のうちで静かに響き始めた。この、命令するわけでもないのに、持続的にふわーんふわーんと鳴り響いて消えない感じ、これは聖霊の声だ。そして、この声に対して、わたし自身の想いは大抵、反対する。実際、その妹のような人との関わりを断ちたくはなかったし、何か問題があるようにも思えなかった。見守り、時に手助けすることは良いことにも思えていた。けれど、聖霊の声は止まない。わたしは聖霊の声に従って生きると決心してもいたから、最終的にその旨を彼女に伝えて、関わることをやめた。勘の鋭い人だったので、彼女も薄々そういう日が来ることを知っていて、抵抗したものの、どこかで最初からそのことを受け入れていた。

この直後から、彼女に投影されていたエネルギーの回収が始まった。最初は別れの悲しみなのかと思ったけれど、そうではなかった。強いていうなら「危うげな、弱さ」とでも表現するような、脆弱さの感覚なのだけれど、鈍い痛みの伴う、濃密なエネルギーだった。そんな投影があったことを、わたしはそこへ来て初めて気づいたのだった。その「弱さ」はずっと彼女の性質としてわたしには見えていて、それに手を差し伸べることは善意であり、正しいことにも思えていた。けれどその「弱さ」はわたしのものであり、わたしが投影し続けておきたいものであり、その口実として彼女に手を差し伸べるという振る舞いがあったのだ。「弱さ」のエネルギーがSin由来であり、手を差し伸べることはGuiltだった。彼女に手を差し伸べることで、その弱さのエネルギーが回収されてしまうことを拒絶し続けていたかったのだ。全く無自覚のうちに。

このエネルギーの回収が始まってから数時間の間は、苦痛で顔がゆがみ、身体が震えるほどだった。彼女のしあわせを強く願っているのに、もうそれまでのように手を差し伸べることは、相手のためにも、自分のためにもならないことが明らかだった。彼女がわたしにどのような投影をしていたかは、わたしの側からはわからない。でも、わたしが彼女に弱さを投影しているかぎり、わたしもまた弱さを温存し、その弱さを自分のものとして、癒やされないまま抱え続けることになるのだ。お互いが良かれと思うことをしながら、実際は、Sin由来の弱さを温存し、抱え続けることで、双方が沈み込んでいくような、そんな関係が続いてしまうのだ。これが投影というものの悪辣さだ。

こうして描写した文を読むと、よくある共依存にすぎないじゃないかと思われるかもしれない。たぶん実際そうなのだが、ただ、あまりに重すぎて、つい「前世」という言葉を持ちだしてしまいたくなるほどだった。そのような展望のない関わり方を、この人生だけでなく、何度も繰り返してきたような、そういうエネルギーの重さだった。ひとつの人生のなかで、過渡的には、お互いが支えあって、確かにそれが必要で有益に思える時期もあったのに、それは赦しという昇華を経なければ、最終的に双方を沈み込ませてしまう罠を孕んでいたのだ。

わたしは「縁」という言葉をよく好んで使うけれど、このときほど「縁」というものを強く感じたことはなかった。必然的に出会っている、出会うべくして出会っている。しかもそれは、分離のダンスを延々踊り続けるための、Sinゆえの縁。赦しによって昇華されなければ、最初は麗しく思えた関係すら、それがどこへもたどりつかないまま、双方をやんわりと縛りつけて停滞させるだけになり、しかもそのことを互いに気づかないのである。

鈍い痛みのエネルギーが回収されるなかで、もう手を差し伸べることができないと知りつつ、わたしは彼女がしあわせであるようにと、心の底から願い、祈った。何もできないから、祈るしかないのだ。身体を震わせながらも、暖かい涙が流れた。そのときやっと、わたしは彼女のことを愛せたような気がした。

赦しがもたらす変化は、時に自らの存在全体を揺るがすことがある。この人生だけで発生した課題とはとても思えない、重いエネルギーを昇華させたとき、じんわりとした、独特の感動のようなものがある。「ストーリー」と切り捨てるにはあまりに貴いもの。たしかにそれはいずれ溶けて流れていくものかもしれないけれど、でもわたしはそれが、奇跡の道(= A Course In Miracles )を歩むことだと信じている。

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