重点の違い

ある時期までアドヴァイタとかノンデュアリティと呼ばれる分野の動画や書物に傾倒したことがあって、当時、自分の中をクリアに整理してくれるように思えた。そのせいもあって、ちょっとはオレもノンデュアリティのこと知ってるんだぜ的な自己顕示欲と、その表現への媚び(こび)みたいなものがあって、このブログでも何度か言及してたりする。蒼い本じたいも非二元に分類されるといえばそうなので、非二元つながりだしいいかなとも思ったりして。いまも時々ノンデュアリティ界隈の動画を眺めたりはするけれど、でももういいかなって気分になってきてる。特に、トニーじいさんの老いの繰り言に代表される(笑)原理的な表現には、全く心を動かされなくなってしまった。近頃日本でも、トニーじいさんの繰り言系の表現をする女性が脚光を浴びたりして、じいさんならともかく若くても繰り言するんだ・・、とぼんやり横目で見ていた。

ノンデュアリティ界隈でも、その表現にはバラエティがあって、教師によって重点が違うんだけれど、2年ほど前に、繰り言系のリサ・ケアンズさんって女性と、それとは立ち位置の違う、ティム・フリークさんていうノリのいい学者さんが、リック・アーチャーさんのホストで対談してた。日本でも販売されたらしい「誰が夢のバスを運転してる?」というDVD、その元になったカンファレンス企画がらみの対談だった。原理表現にこだわるリサと、それは十分わかったうえで、その先があるんだよ、ってティムおじさんが諭すように話す、面白い対談だった。世界各地の神秘主義や非二元的伝統に精通する学者で、自身もその体験をしてきたティムおじさんが速射砲のようにしゃべりまくり、繰り言系のいささか貧しい表現反復に終始する若いリサが押される感じで、つい、ティムおじさんもっとやれ、って笑いながら見てしまった。

この動画の抄訳を3回に渡ってアップされてた方がいらしたので、リンク貼っときます( http://rabbithole0.blogspot.jp/2014/02/blog-post_19.html )。以前もアジャシャンティの翻訳でリンクさせてもらった方ですが、この方の問題意識じたい、この動画の企画趣旨に近い方なんだろうなと思います。動画のほうは、結構、笑いアリの展開だったのですが、翻訳だけ読むとちょっと険悪な感じで喧嘩してるみたいにも読めます。でも、論点が鋭く対立してるのは事実だと思います。

繰り言系表現にはそれはそれで役割があるんだと思うけど、たぶんそんなにたくさんの人が必要としている表現ではない気がするし、ことによっては有害ですらあるとも思う。特に、エネルギー的に分離感を色濃く残してる人がこの表現に触れると、あっさり傷ついてへこんだり、また混乱させられたりもするだろうし、繰り言の一見ドライな側面に魅入られてイデオロギーっぽくこの表現を振り回し始めるのはろくなことではないと思うけど、クリシュナムルティの時代からそういうことはあったみたいだし、歴史が繰り返すのは仕方ないのかもしれない。

そもそも、わたし自身、なんでこんなジャンルに首をつっこんでんだって話だけど、別に覚醒したいとか悟りたいとか、もともとそんな願望があったわけではなく、とりあえず、世界に興味がなく、生きる意欲もなくなって、でも、肉体を転がして寿命を全うしなきゃ育ててくれた親に申し訳ないとか思ってて、そこで非二元の話が、もう少し意欲的に生きられる可能性をもたらしてくれるような気がした、というか、それらの本を読むことには、なお意欲が感じられた時期があった、というのが実際のところ。蒼い本に取り組んでる動機も本質的には変わってない。蒼い本は世界の消失とか神とかが目標になっちゃってるけど、ちゃんと意欲を感じて生きてられたら、そういうのも正直、どっちでもいいかもしれない。

ところで、上のリサさんとティムおじさんの対話でも、どちらも汎神論という点では共通してる気がするんだけど、蒼い本は「世界はない」って言っちゃうので、こういうのって、グノーシス的っていうのかな、詳しそうなティムおじさんに教えてもらいたい。蒼い本の翻訳の守護神、ワプニックさんも30年ほど前に、蒼い本とグノーシス、プラトン主義についての論文みたいな本を書いてたけど、きっと、同じ非二元系でも、蒼い本とグノーシスとの共通点とかを論じてたのかもしれない。読む気がしないので、10行ぐらいで要約してほしい、読む意欲じたいが薄れてきてるので(笑)。全然関係ないけど、リサさんは、昨年、デヴィッドさんのコミュニティの夏の大きなイベントに招待されていた。はっきりいって、繰り言表現と、蒼い本の実践スタンスとはかなり違うのだけど、想像するに、コミュニティ全体で、繰り言ティーチャーを赦す、というのが隠れた意図だったんじゃないかと妄想している(笑)。コミュニティに所属する人からも、蒼い本とは異質な、あのタイプの教師をなんで招待するの?という疑問が提起されたなんてことがあったらしいから。

ノンデュアリティ関連で散漫に書いてるけど、もうひとつ。教師のなかで、特に花や衣装や照明で演出してるわけでもないのに、ぼんやりほの白いオーラというか後光というか、あれ、なんか光でてない?って感じる人がいる。そういう人からは決まって「慈悲」「聖性」「無垢」といった印象を受けるのだけど、大抵、信仰系(バクティっていうの?)のバックグラウンドがある人な気がする。二元か非二元かは究極どうでもいいんだけど、あの慈悲、聖性、無垢にはなにか惹かれるものがある。訓練して身につくものならつけてみたい。というか、ひとはあんなふうにもなれるんだ、という神秘的な感じがして目が離せない。蒼い本もまた信仰系だし、神秘主義の伝統に連なるスタイルだと思うので、もともと蒼い本を表題にすえたこのブログ、ノンデュアリティ業界の表現に媚びるのはもうこのへんにして、信仰を生きるとはどういうことかをもっと深めていきたい、そんな意欲だけはいまも静かに自分の内に湧き続けている。

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