訓練

蒼い本は分厚い本だけど、その実践において気に懸けるのは、赦し、聖霊、祈り、といったシンプルなことだ。蒼い本における「赦し」の感触、意味合いが段々実感としてつかめてくると、重要になってくるのは聖霊の導きを祈りのなかで聞き取ることだ。わたしはいまだ100パーセントの確信と信頼をもってこれをやれてない。自信がないのだ、聖霊とつながれているのかどうかの。そしてそのことじたいもまた、聖霊に尋ね、委ね、導いてもらう機会であったりする。

「聖霊の導き・聖霊の声」と妄想や幻聴と何が違うのか、得手勝手な自己都合妄想を「聖霊の声」としてしまっていないか、正直さ、謙虚さ、注意深さをもって祈り、聞き続ける必要がある。また、蒼い本じたいが聖霊の声なので、蒼い本を丁寧に読むことが聖霊の声を聴くことになり、聖霊の声を誤認しないための感度をあげていく訓練になる。

蒼い本には何度も書いてあるが、聖霊は「心を」導き、赦しが起こるようにと導く。だから、基本、赦しを進めようという姿勢はざっくりとしたガイドラインとなり、聖霊の声から外れないための指針にはなる。「祈りの歌」の章にも、「赦しは祈りに翼を与える」とあるが、赦しと祈りが並列的に書いてあることの意味は大きい。ゲーリー・レナードさんのおかげで、赦しの重要性は広まったけれど、祈りの重要性は、その捉えどころのなさゆえに、なかなか実感しにくいかもしれない。赦しを続けていれば、いずれ祈らずにはいられない局面がやってくると思うので、それほど焦る必要もないと思うけれど。エゴはそもそも、自分の主導権を失うような「祈り」に真面目に取り組みたくなんかないわけで、赦しだけでなく、祈りへの抵抗もまた大きかったりするのだ。最初のうちは結構、バカバカしかったり、屈辱的だったりするし、祈るって。

赦しはある意味、受動的な側面が強い。祈りは、それより更に受動的な気がするけれど、実は、祈りのなかで与えられる導きは、能動性をもたらす。そもそも、祈らずに能動性を発揮するとき、それは自動的にGuiltに同化しているときであり、つまりエゴなのだ。このことに思い至ったとき、驚き、呆然としてしまった。このまま、Guiltを手放し続けてたら、もうほんとに自分で何もできなくなってしまうじゃないか、と。しかし「自分で何かしている」という自律性の感覚じたいが、実はある種の催眠だったと、徐々に明らかになっていく。いや、現時点で、わたしはこの結論にまだ本当に納得しきってはいないのだけど。たぶん赦しじたいがまだ途上なのだろう。

祈りが自分にとって重要になってきた頃、第30章「決断のためのルール」やワーク135課の文章全体が不気味に迫ってきた。これを文字通り実践すると、日常生活にほとんど破壊的なインパクトをもたらすことが薄々わかってきたからだ。

『今日、私は自分ひとりでは何も決断しない。

これは、何をすべきかを判断する審判者にならないことを選択するという意味である。しかし、それはまた、自分が応答するように求められることになる状況自体について判断しないということも意味する。なぜなら、もしそれらの状況を判断するなら、それらに対してどう反応すべきか、そのルールをすでに自分で設定していることになるからである。そうなると、それとは別の答えは混乱と不確かさと恐れを生み出すことしかできなくなる。
これが今のあなたの主要な問題である。あなたは依然として自分で心を決めている。そうしておいて、その後で、自分が何をすべきか尋ねるという決断をする。そして、あなたが聞く答えは、最初にあなたが見た通りの問題を解決しないかもしれない。これが恐れにつながる。なぜなら、それはあなたが知覚するものと矛盾し、そのためあなたは攻撃されたように感じるからである。その結果、怒りを覚える。こうしたことが起こらないようにするためのルールがある。しかし、あなたがどのように耳を傾けるべきかを学んでいる間、最初のうちはどうしてもそうしたことが生じるものである。(中央アート出版社 奇跡講座 P806 上段)』

5年前の今頃の季節、勤めていた会社を辞める決心をした。別に蒼い本を実践するために辞めたわけではなかったが、結局、この5年間は段階的に、蒼い本へのコミットメントが生活の全局面に浸透するように進展していく日々だったし、今もそれは続いている。努力してそうしようとしたというよりも、大きな流れに飲み込まれ、押し流されたかのようで、そうせずには様々な葛藤が乗り越えられなかったというのが実際のところだ。上の「決断のためのルール」や聖霊の導きというのは、肉体の生存・サバイバルのための行動、つまり仕事、お金を稼ぐこと、経済問題との絡みで、自分にとって大きな関心事となってきたのだけれど、いくつもの葛藤がからみついて、このテーマについて書くことをずっとためらい続けてきた。しかし、霊的な道のりにおいて、少なくとも蒼い本の実践において、この問題をクリアにせずに進むことはできないと思う。それは間違いない。「自分は肉体ではない」という教義を信奉しても、日々、労働するのは生活のためであり、それはつまり肉体のためであり、極端に言えば、肉体の死を遠ざけるため、というところがある。形而上学的な真理は、日常生活において本心で信じている価値観によって、常に背かれ続けるわけである。労働生活、経済生活を密かに裏打ちしている、この生存の危惧感、それと隣接している欠乏感や無価値感、無力感などは、実は、Sin(罪)由来のものだと、ある日気づいた。つまり神からの分離由来なのである。蒼い本の視点からすれば、わたしが生命だと思って努力して維持しようとしていたものが死であり、死だと思って避けている闇の奥に実は、生命=神が鎮座していた、ということで、生命と死はエゴの知覚を通じて、完全に転倒されていた。だからといって、見かけ上、肉体としての生活は続いており、霊的な真理と普段の生活がいかにして整合性をもつのかについて、わたしはまだクリアになっていないし、確信に至ってもいない。

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