汝の敵

既出の小出さんに触発された「赦せない相手のしあわせを祈る」というアプローチ。その本来の趣旨からはズレてるかもしれないけど、わたしの赦しの実践が強制的にジェット気流に乗せられた気さえする、そのくらいのインパクト。赦せない人はもちろん、赦しが終わったと思っていた人ですら、そのしあわせを祈ることは想像以上に抵抗が生じる。笑っちゃうくらい、しあわせになってほしくない。あはは。アイツのしあわせを祈るのは断る!!的な抵抗感の根っこには、息を殺して隠れていたSinとGuiltがいたわけです。

この赦せない人のしあわせを祈るというコンセプト、どっかに似たのがあったなあとつらつら思いめぐらせていると、そうだ、我らがイエス様も「汝の敵を愛せよ」とおっしゃっていたではありませんか。なんか似てませんか。もちろん聖書学的には色々解釈があるんでしょうけど、蒼い本的に「敵」というのは、いわば最もSin(罪)が濃厚に投影された象徴だと思うのです。普通、敵は憎しみ、攻撃する対象です。だから愛するなんて不自然です。すごい抵抗あります。無理強いすれば、やせ我慢や教条的な犠牲の意味合いでしか理解されない危険もあります。けれどそこにこそ、投影された罪を自覚しその罪を自らのものとして回収して引受け、聖霊にゆだねるチャンスになるわけです。敵を赦す、敵を愛する、というのは蒼い本における赦しの道のりにおいては、ボーナスステージの様相すら呈するかもしれません。

『地上における最も神聖な場所とは、往古の憎悪が現在の愛となった場所である。そして、彼らは、彼らの家が用意されている生ける神殿にやってくる。天国にもこれ以上に神聖な場所はない。そして、彼らは、彼らに差し出された神殿に住まうためにやってきた。それはあなたの憩いの場であると同時に彼らの憩いの場ともなる場所である。憎悪が愛へと解放したものは、天国の輝きの中でも、最も明るく輝く光となる。そして、再び戻ってきたものに感謝して、天国のすべての光は一段と輝きを増す。(中央アート出版社 奇跡講座 テキスト T-26.IX.6.) 』(注)ここで「彼ら」と呼ばれているのは文脈からすると、キリストのようです。

赦せない人のしあわせを祈るというコンセプトに似たアイデアをもうひとつどこかで聞いたことがあるなあと思ってたら、やっぱりありました。知人に教えてもらったことがあったのです。「慈悲の瞑想」というもので、仏教の教えだそうです(出典:http://www.j-theravada.net/3-jihi.html )。

『私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように』

ここまでは抵抗がないのです。問題はこのあとです。

『私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように』

ほらきた。これ知人に教えてもらった時は、意味わかんない、なんで嫌ってる人がしあわせになるようにとか思わないといけないの。やせ我慢してそんなキレイ事に身をやつすほどあたしゃ高尚な人間じゃありませんよ、と不遜なことを思っていました。口には出さなかったけど。でもこれは別に、いいコトしてるあたしってすごい、って自己満足に浸るための瞑想ではないらしい、と今になって思い始めました。通常の感性からは明らかに不自然なこの祈りのなかに、人の分離感の根源、罪をあぶりだす効果があって、それこそが赦しの機会として浮上してくるものなのだということです。

「敵」というのは時にこちらの命を狙ってくるものですが、その時、念頭に置かれている「命」とは肉体の生命です。当然、肉体が生命であり、肉体が自分だと信じきっている前提の話です。しかし、蒼い本ではあなたは肉体ではない、命とは霊(Spirit)に連なる心(the mind)で、それは不変不滅なのだ、破壊され得る肉体などは実在ではない、といいます。してみると、「敵」を前にしたとき、わたしたちはどれだけ自分を破壊可能、殺されることが可能な肉体そのものだと信じているかが明らかになります。当然、相手もまた肉体で、自分が殺されないように相手を攻撃しなければならない、殺さなければならない、という発想はごく自然です。やられたらやりかえせ、やられるまえにやってしまえ。こんなにまがまがしい発想をふだんはおくびにも出さないのが良識ある市民社会の一員というものですが、でも切羽詰まれば、このような発想は不死鳥のように甦ってくるものです。

肉体から心そのもの、霊へのアイデンティティシフトには、明らかに人智を超えた飛躍が必要に思えます。それはいくら言葉で「わたしたちは不死で一体のスピリットです~☆」ってつぶやいたところで、銃口が自分と自分の大切なひとたちに向かっている時、刃が喉元につきつけられているとき、そう簡単に掲げ続けられるような信念ではないのです。だからこそ、赦ししか、聖霊による知覚訂正を祈ることしか、肉にどっぷり同化したわたしにはやれることがない。でもやり甲斐はある、この赦しは。ほんとうにやりきれるかどうかわかんないけど、そこはべったり聖霊にもたれかかるとします。

『十字架が立っていた場所に、今や復活したキリストが立ち、往古の傷痕はキリストの見ている光景の中で癒される。殺すためにやってきた往古の敵意を祝福し、それと入れ替わるために、往古の奇跡が訪れたのである。穏やかな感謝を抱きつつ、父なる神神の子は、現在も、永遠の未来においても、彼らのものであるものへと回帰する。今や聖霊の目的は果たされた。彼らが訪れたからである!ついに、彼らが訪れたからである!(奇跡講座 テキスト T-26.IX.8.4)』

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