午前と午後

インターネットって、ぱっと検索すればなんでも調べられる、そういう全能感がちょっとある。でも、肝心の検索ワードが思いつかなければ、調べたいと思っているデータやサイトじたいにたどり着けない。検索ワードを思いつけないと途端に、広大な空を眺めて自分の期待通りの星を手探りするような、途方もない感じになってしまう。リアルでの人の縁と同様、ネットで誰かの書き物との出会いも、また縁なんだなと思う。

「悟後の修行」。どういういきさつだったか忘れたけれど、このワードで検索したら、お、と思うブログに2つほどたどりついた。「悟り」や「覚醒」というワードは興味もあって一時期よく検索したけれど、「悟後の修行」って言葉は検索した記憶があまりない。近頃、「覚醒」や「一瞥」、あるいは「悟り」の体験をする人はだんだん珍しくなくなってきて、体験の記述、描写も簡単に手に入る。それらの描写にはだいたいのパターンがあり、以前たくさん読み漁ったこともあって、今はそれほど興味がない。

悟後の修行というテーマで出てくる文章は、劇的な覚醒体験をしていない自分にも身近に感じられる内容だったりする。結局、悟前も悟後もやることはそう変わらないらしい。ならば覚醒って何の意味があるのかなと考えると、それはポイント・オブ・ノーリターン、もうここを踏み越えたら後戻りはできませんよ、という境界線なのかなと思う。

蒼い本の実践は赦しや祈りで、目標は、完全な平安の達成、とある。蒼い本にも啓示や神秘体験に分類される記述はあるけれど、これらはそれほど比重をおいて書かれてはいない。そういう意味では、悟前や悟後といった区別をせず、一貫して、赦し、祈りの実践をするのが蒼い本の特徴かもしれない。

悟後の修行の記述の何が興味深いかというと、ディープな実践がわりとあけすけに描写されている点だ。実践とは、わたしのブログだとSinとGuiltの回収解除と呼んできたもの。実践がディープになると、自分が見たくないもの、自分が認めたくないものを直視せざるを得なくなる。当然、他人には絶対に見せたくない、知られたくないことなわけで、それを自分が受容することによって、他人に見せても、知られても平気でいられるレベルにまで至る。そんなわけだから、ネットで人様に公開するとなると抵抗はあるし、完全に吹っ切れていないと書くこともできない。また、そうしたディープな実践をしているからといって、必ずしも描写力のある文章を書ける人だとは限らない。

わたしは自分のことをどちらかといえば自責偏重の人間だと書いてきた。もちろん、ひとりの人間のなかには自責的側面も他責的側面もあるのだけれど、ひとによってその偏りはやはり厳然とあると思う。自責と他責、どちらがましかという話ではなく、どちらもつきつめると狂気でしかない。ただ、ネットに公開するとなると、たぶん、自責偏重のひとより、他責偏重の人のほうがおおっぴらにしづらいんじゃないだろうかと、勝手に想像する。自傷癖がありました、とカミングアウトするよりも、わたしひとを刺しました、ってほうが、やっぱり公開しづらいんじゃないかと。別に公開しなくてもいいんですが。で、お、と思ったブログというのは、いわゆる悟後の修行をディープに書いている人で、なおかつ、自分の根本的な資質が「いじめっこ」側だと自認する人だった(「ゼロを超えて」という題名のブログなので、興味ある方は検索してください)。蒼い本の実践者でもそうだが、自分をディープに他責側の人間だと自認しながらブログ書いてる人って、あまり見かけない。なので、ほほー、そんな心理ってあるんだー、って感心しながら見つけたブログを眺めていた。文章量が多いので、全部は読めそうにないけど。

見つけたブログ、もうひとつのほうは、ぱっと読んで「ああ、なんか普通で、健全だなあ」という爽やかな印象。「はるかにあらず」というブログで、小出さんという方が書いておられます。この普通さ、健全さが新鮮に感じられるのは、覚醒や一瞥の体験をした人があまり普通じゃない、ヘタすれば健全ですらない、という印象を受けることが今まで結構な頻度であったからだ。10人ぐらいそんな人に会ったり、話したりしたけど、その半分ほどは、神秘体験なんてしてない、スピリチュアルのスの字も知らない人より、よっぽどエゴエゴで、ちょっと引くわ、みたいな印象だった。悟後の修行って大事だな、と思いました。でも「はるかにあらず」のブログ主さんみたく、自然体で、神秘めかさずに悟後の日々を過ごす人たちが増えていってるのかなと思うと、ちょっとニンマリしてしまうのでした。

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