「赦せない」とはどういうことか。

例えば、商品を納入した取引先が代金を期日になっても支払わないとする。こちらは「期日通りに払うべきだ」と相手に主張する。相手方はのらりくらりと言い訳をして、支払いを渋る。納得できるような理由ではなく、こちらも泣き寝入りするわけには行かないから、粘り強く交渉しなければならない。当然、ストレスや憤りは募る。しばらくして相手方は資金繰りがついたのか、代金を入金してきた。とりあえずこちらの要求が期日遅れながらも満たされたが、なにかムカムカ、もやもやが消えない。「赦せてない」という状況である。

「こうすべきだ」「そうすべきではない」という「べき」は、「Guilt(罪悪)」とこのブログで呼んできた。Guiltは想念・信念として意識される。期日通りに支払う「べき」だ、はこの用語法に従えばGuiltである。罪悪という日本語の語感ではしっくりこなくて、規範、という言葉のほうが実体には沿うが、規範が守られなかった時、相手が感じるべきは罪悪感であり、未来に向けて行動を律する時、Guiltは「規範」と理解し、過去の行動を評価、断罪する際にはGuiltは「罪悪」と理解するとしっくりくる(参照⇒ http://ameblo.jp/bluebookofacim/entry-11854268498.html )。

先ほどの入金されてもムカムカ、もやもやが消えない状況だが、しばらくしてある気づきが起こったとする。期日通りに払う「べき」だ、というGuiltの奥に、実はもうひとつ自覚されていないGuiltがあった。約束を守ることを通じて、担当者の私に敬意を払うべきだ、というGuiltだ。約束が期日通りには果たされなかったことが、私への敬意を欠いた態度だと潜在意識では理解されていて、約束を守ることを通じて敬意を払う「べき」だというGuilt(規範)は破られ、私のメンツがつぶされ、私は傷ついた。敬意を払うべき、というGuiltは想念・信念レベルだが、傷ついたというのはフィーリングのレベルにあり、無価値感と名づけて呼んでもいいかもしれない。このフィーリングとしての無価値感を、このブログではSin(罪)に属するもの、として分類してきた。Guiltは想念・信念のレベルであり、Sinはフィーリング・身体感覚のレベルに属する。もちろん、蒼い本におけるSinの抽象的な定義は、神からの分離であるが、実感レベルでこの用語を扱う時、このブログでは上記のような区分けをしてきた。

GuiltはSinを抑圧・投影しておくために機能する。敬意を払うべき、というGuiltが相手に課され、無価値感というフィーリングを相手に投影しながら、相手が約束を守って私に敬意を払っているかぎりにおいて、無価値感というフィーリングを感じないで済む。相手が約束を守らなかった時、投影されていた無価値感のフィーリングの回収が始まってしまい、非常に不快な思いをする。そのような局面が生じると「相手の行動のせいで、自分は不快な思いをさせられた」と知覚する。しかし、蒼い本のワークのレッスン序盤にあるように、状況や相手の態度じたいに意味はなく、意味づけているのは常に自分である。意味づけとは具体的にいうと、自分の抱えるGuilt=想念とSin=フィーリングの投影である。

投影の回収・解除(≒赦し)とは、投影されていたSinのフィーリングが回収され、Guiltの想念・信念が手放されることだ。GuiltはSinを抑圧・投影しておくために機能しているので、Sinの回収が起こらないかぎり、Guiltだけを手放すことはできない。例えば、上記の事例を改変して、相手方が代金を支払わないまま夜逃げしてしまい、完全に債権が焦げ付いてしまったとする。もう代金が支払われる見込みはなくなった。金銭的なダメージはもちろん大変だが、完全に顔を潰された、信頼を裏切られた、という想いのほうが後々まで尾を引いたりする。ひとは時に「金だけの問題じゃないんだ!」と息巻いたりするが、それにはこんな心理が働いていたかもしれない。信用が大事なゆえんである。ともかくも、上のようなSinとGuiltの回収・解除をすると、ムカムカ・もやもやは相当軽減するはずである。

ところでSinを回収するとは具体的にいうと、相手が約束をやぶった状況で、否応なく感じさせられる無価値感のフィーリングをそのまま迎え入れて感じ、そこにとどまる、ということである。その上で聖霊にゆだねる、聖霊に明け渡して癒してもらう。すると自然にGuiltが手放されていく。一方、Sinの回収拒絶とは、相手の約束違反で感じさせられる羽目になりそうな無価値感のフィーリングを脊髄反射的に拒絶して、相手が約束を守るべきだった!敬意を払うべきだった!とGuiltを連呼し、相手を糾弾し続けることである。このような状況では、意識の表面はGuiltの正当性(約束守るべき、敬意を払うべき)に疑いをもつことなく反復強迫的にGuiltに執着して主張し、相手に罰を下す思考にしか向かわない。つまり「赦せない」という事態である。水面下で、無価値感のフィーリングの回収を拒絶している、無価値感のフィーリングを絶対に感じたくない、という潜在的衝動が働いているとは自覚しにくい。

「赦せない」状況には、何パターンかの要因があって、ざっくりと以下に列挙できる。もちろんわたし個人の経験の範囲内でそうだというだけです。

① Guiltが判明していない、自覚されていない。
② Guiltの正当性を疑っていない。
③ Sinのエネルギー(フィーリング)が特定、自覚されていない。
④ Sinの投影対象が自覚されていない。
⑤ Sinの投影エネルギー(フィーリング)が不快すぎて、回収(感じること)を拒絶している。

蒼い本でいう「心の訓練(mind training ) 」とは、自分の心を見つめ、そこにある想念・信念、フィーリング・身体感覚を敏感に察知し、そこにSinとGuiltの関係をまず見出すことだと、わたしは理解しています。そのうえで、回収・解除≒赦しのプロセスが進んでいく。

SinとGuiltは潜在意識に深く深く埋まり込んで積層化しているので、化石の発掘作業で刷毛(ハケ)を片手に丁寧に遺物を掘り起こすのにも似ているし、ランプの灯りを頼りに地下迷宮を降りていくことにも喩えられるかもしれない(ここでの「刷毛」や「ランプの灯り」は聖霊のことである)。ともかく、想念・信念とフィーリングを自覚に上らせないかぎり、ほとんどの赦しは進展しない。しかし、この自覚に上らせる、という作業もまた、おそらく聖霊の助力なしには、ある段階から進展不可能になっていくと思う。自らが主導権を握っているような内観あるいは自己分析的姿勢では、それ以上進めなくなってくるのだ。聖霊に明け渡した状態で心を見つめる、受動的な内観とでもいうような姿勢が必要になってくる。この無防備さと信頼を含んだ姿勢は、「祈り」の一歩手前の姿勢だ。

赦しのプロセスに二大関門があるとしたら、今述べた「自覚に上らせる」ことと、上記に列挙した⑤、Sinの不快なエネルギーを迎え入れて感じて、そこにとどまりながら、聖霊の癒しを祈る、という振る舞いである。赦しが進むと、一定のピークまでは、回収を引き受けて感じるSinの不快さ、おぞましさは着実に高まっていく。聖霊が癒してくれることへの信頼が確立されてようやく、到底いたたまれないような恐怖感、恥辱感、無価値・無能・無力感に直面する準備ができる。これは訓練と時間のかかるプロセスだと思う。当然わたしもまだ途上です。

赦しの手続き、参照 ⇒ http://www.jacim.com/acim/?p=4113(ワプニックさん)、http://ameblo.jp/bluebookofacim/entry-11832450074.html(わたしの旧ブログ)。

(追記)

上で挙げた商品代金未払いの事例は、こちらが相手を裁く状況、Guiltが他人へ向かっている他責的状況だった。投影という言葉は、他責的状況と相性がいい感じがするけれど、自責的状況、Guiltが自分に向かっている状況においてもまた、投影は相手に対して起こっている。

例えば、夏休みの宿題を「やらねば」と思っていた小学生が、結局8月末になっても宿題をやり終えられなかったとする。新学期に学校に行って、先生と顔を顔を合わせるのが怖くて学校を休みたいくらいだが、そんなことで親は学校を休ませてはくれない。こんなとき、頭のなかで想像する先生の怒っている顔、その顔に萎縮する自分の感情は、先生が怒っていることが原因で生じる感情ではなく、自分のGuiltによって抑えこまれたSinの感情が先生の顔に投影されているから生じるものだ。したがって、このような状況でこの小学生が赦しを学んでいたとしたら、まず、怒っている先生の顔に対して無防備になって、投影されたSinの回収を行う。当然、怖い感情、萎縮した感情をより真正面から感じることになる。そして回収が終わったあたりで、自責Guilt、ここでは「宿題をやるべき」というGuiltを手放すのである(笑)。すると、罪悪感や萎縮する感情はずいぶん緩和されるはずである。もちろん、宿題をやっていかなかったら先生はやっぱり怒るかもしれない。でも、自分に対するGuiltが解除されていれば、つまり、本気で宿題をやらなければならなかった、と信じていなければ、先生がどんなにガミガミ言っていようともお、首をすくめて嵐が去るのを待っていればよくて、本気で怖がったり凹んだりすることはないのである。たぶん、首をすくめていても宿題は免除にならないだろうから、いずれは仕上げなければならないとしても。

自責Guiltにおいても、他責Guiltと同様に投影がある、という当然といえば当然の仕組みがはっきり自覚されて以降は、他人の視線を予め想像して、気分が重くなるというようなことを赦すことで、どんどん解消していけるようになった。他人の視線が自分に影響を及ぼすかに見えるのは、自分のSinとGuiltの投影があったからである。

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