自分に正直になる

これまたJACIMのQ&Aからですが、【質問】No.71 (org.#1279, #454) (⇒http://www.jacim.com/acim/?p=4979 )に、「健全な自我を育てることの大切さ」に関する文章があります。蒼い本は自我を取り消すことだけを教えているようでいて、ワプニックさんはちゃんと「自我を育てる」という視点も提示しておられました。正直、ワプニックさんは学者すぎて、迂遠というか冗長だなと思っていたりして、わたしはべったり傾倒したことはないのですが、意外といいことおっしゃいます(当たり前か)。

このNo.71 (org.#1279, #454) における質問・その1の質問者は22歳ということですが、この若者に対するワプニックさんの回答は必ずしも若者だけに向けられたものではないとわたしは思います。何歳であろうと、この世界に何か欲求や願望があるのなら、正直にそれを認めて、できるかぎり真正面から取り組んで体験してみるのがいいと思うのです。けれど、必ずしもひとは自分の欲求や願望に素直に、正直になりきれません。そして妥協を積み重ねて、それがさも大人の節度だといわんばかりに振る舞ったりもするのです。それは明らかに自己欺瞞なのですが、欲求や願望に突き進むことで直面する劣等感や痛み、怖れ、葛藤というのもあって、それに直面するのが厄介なので、妥協が大人の節度、成熟した諦念、みたいな態度を取ることもあるのです。まして、そこで抑圧された欲求が歪んだ野心として蒼い本に向かったりしたら、結構面倒くさいことです。

わたしにとって蒼い本へのコミットが本格化する前の10年ほどの間、スピリチュアリティとは、自分の欲求、願望に正直になること、自分の欲求や願望を制限する思い込みや観念、怖れを取り払っていく、そういう側面が大きかったです。スピリチュアルには様々なトピック、テーマがありますが、結局、自分がこの人生でどう生きていくのかが一番大きな関心事だったからです。確かに、蒼い本の見方を形式的に当てはめられると、それはエゴの範疇のスピリチュアリティだと言われてしまうかもしれません。しかし、わたしにとってその期間は「自分自身にひたすら正直になる」レッスンだったと思えています。これは蒼い本へのコミットが始まってもそのまま必要な姿勢だと思うので、無駄になってないと思います。

直前の日記でNo.89 (org.#129) の質問者が、自分で創りだした救済計画の一環として、蒼い本を使ってしまっているのではないか、という見方を提示してみましたが、そのことじたいは別に悪いことにも思えません。ゲーリー・レナードさんも当初は愚痴っていましたが、どっちにしろみんな好き勝手に蒼い本を使うものなのです。幾分不憫なのは、蒼い本を使いながら、あまり手応えを感じられてもおらず、平安が増してもいない、でも蒼い本から離れるわけでもなく気になり続けてる、この質問者の状態かもしれません。「ずいぶんと努力して心の訓練をしてきたにもかかわらず、自分の心が依然として、いとも簡単にさまよってしまう」とNo.89 (org.#129) の質問者は嘆いていますが、心がさまよってしまう、というのは、否定的なことではなくて、ほかにやりたいことがあって、心がそっちへ引っ張っていこうとしているだけかもしれません。行ってしまえばいいのです、そちらへ。けれど、培われてしまった蒼い本への奇妙な忠誠心のせいなのか、自らの正直な欲求を却下するような不自然に禁欲的な習慣がついてしまっていたのではないか、そうわたしは勘ぐってしまいます。実際、蒼い本を禁欲的な自己規律、セルフコントロールのように教え、それをもって「心の訓練」だとするような教師もいます。教えている教師はそれで幸せなのだからいいですが、それを額面通り受けとめてしまって混乱する生徒というのは、若干、不憫です。それもまた最初から決まっているシナリオで、みんなどっちみち無罪ですから、といえばそれまでなんですが(笑)。

『「コース」をきちんと教えるのではなく勝手に解釈する人たちは、たいてい二つの間違いのどちらかを犯す。一つは「コース」の俗世間バージョンをつくろうとすることだが、これは失敗する。なぜなら神をそっちのけにすることで真の問題-神から離れたように見えること-を無視するから。もう一つは神を取り込んだ二元性のシステムのバージョンを作ろうとすることだ。こっちも二元性という性格そのもののために、真の問題を解決できない。神が分離を創造し、認識していると信じながら、神からの分離を解消するなんて、できっこないだろう? だからどちらも見かけの分離を正すのではなく再強化するだけで、多大な時間を浪費して終わるんだよ。(河出書房新社「神の使者」P223)』

これは「神の使者」におけるアーテンの発言ですから、分離を取り消すために蒼い本を使うのが正しい道で、分離を温存したまま蒼い本を理解しようとすれば、必然的に蒼い本は曲解される、とそういう立場での説明になります。こういう説明を聞いていると、エゴは悪いものだ、退治しなければ、みたいな気分にいつの間にか感染したりします。でも、わざわざ蒼い本を標榜するのでないなら、たんに、自分の正直な欲求を追求すればよかっただけなのです。たとえそれがエゴだと言われようとも。早い話、最初から蒼い本なんかやらなければよかったのです、そうすれば曲解だって起こらない(笑)。もっと自分の欲求に正直になれば、色んなことがシンプルになるし、そのために蒼い本なんて全く必要ない。蒼い本が無駄に権威をもってしまっているせいか、ただ正直に自分の欲求を追求しきれないだけの人まで吸い寄せてしまい、必要のなかった混乱をもたらしている気がします。分離の世界は必要のない混乱だらけですが(苦笑)。『「コース」の俗世間バージョンをつくろうとする』というのは、結局、この世界における自分の欲求や願望をただ正直に認めて、それをまっすぐ追求していればよかったのに、なんらかの理由で正直さを回避して、自己欺瞞を放置したまま、自分の欲求不満や閉塞感を解消してくれる「高尚な魔法」を蒼い本に求め、曲解や自己流解釈によってその魔法をひねりだすということです。それでも精神安定剤的効果があるからいいのかもしれませんが、くどいくらいに世界は幻想だと言い続ける蒼い本を使って、分離を前提にした世界における欲求や願望の叶え方的解釈をひねり出すので、当然、世界をリアルなものとして扱い、世界という夢を握りしめて放さないことになります。

混乱の実際とはつまり、エゴを取り消す必然性に襲われてしまった人が蒼い本に取り組まざるを得なくなる一方で、エゴを取り消すのとは真逆に、まだエゴの欲求を満たし足りない人が、それが教師の立場を使ってであれ生徒の立場を使ってであれ、蒼い本によってエゴの欲求を満たそうと試みる、満たせるかもしれないと期待する、そういう現象がある、単純化すればそれだけのことなのでしょう。この両極だけが存在しているというより、この両極の間にグラデーションのようになって、方向性の異なる動機に股裂きになってるのが学習者の葛藤かもしれません。どちらにしろ、蒼い本の曲解というのはこの分離の世界では必然的に生じることにすぎません。

自分の欲求を実現するために、本当に蒼い本は必要だろうか、実際は蒼い本なんて全く必要なくて、ただ正直さだけが自分に必要なことではないだろうか、いつもそう問いかけていれば、蒼い本にまつわるあれこれの混乱に巻き込まれずに済むかもしれませんし、もっと自分に適したやり方が見つかるかもしれません。

・・・・蒼い本を標榜しているブログなのに、いつのまにか、いかにして蒼い本を使わずに済ますか、と力説する文章になってしまいました(笑)。いまは蒼い本に真剣にコミットしているつもりのわたしですが、上記のことは、蒼い本をやるやらないに関わらず、わたしの基本姿勢だからなのですが。

広告