共感再考

「自分を抑圧してでも、相手の立場を考える、相手の立場で考える」という姿勢を、主要な対人戦略として採用しているのがわたしのエゴの特徴としてありました。これは「わかるGuilt」の一部でもあります。こちら(わたし)を最初から利用し、搾取し、騙し、犠牲にするつもりで向かってくるような悪質な相手でないかぎり、この姿勢は対人関係でもかなり有効に機能していました。有効といっても、もちろんそれはエゴの観点からにすぎませんが。なにせ自分のことを考えてくれる相手、自分の立場を理解してくれる相手にひとは悪い気がしないものです。もちろん、完全に他人のことが理解しつくせるなんてことはないのですが、その姿勢を示すだけでも、関係性はわりと良好に推移しやすい。けれど本質的に、この対人戦略は自己防衛の姿勢であり、エゴの一環です。

このような対人戦略というのは、極端に自己中心的な人間を前にすると、わたしの方が自分のクビを絞める結果になって破綻してしまうのですが、破綻するなら破綻するでそれはわかりやすい。明らかな苦痛は自覚しやすいわけで。事実、強く自覚された苦痛の結果、このような対人戦略を自分が無意識のうちに、そして良かれと思って採用してきたことに気づいて以降、意識して手放すようにはしてきました。けれど、かなり根深い癖になっているので、完全に抜け切ってはいない。

わりと良好な関係を維持できているつもりの相手に、それでも、.なんか微妙にモヤモヤする、イライラする、でもその原因になかなか思い至らない、ということが何度もありました。以前なら無視してしまえた程度のモヤモヤ感、イライラ感だったのに、自分の癒しが進んでくると、こういう微妙なモヤモヤ感、イライラ感も段々と無視できないほどに、何かセンサーが敏感になってくるようで、ちゃんと聖霊と共に直視せざるを得なくなります。

「相手の立場を考える、相手の立場で考える」というのは、一見、悪いことではないような気はします。けれど、そこには自己抑圧、自虐がセットになっていて、つまり犠牲があった。もうひとつあまり自覚してなかったのは、考えているつもりの相手の立場は、相手のエゴだった、ということです。相手の立場を考える、という時、相手のエゴを吸収したうえでわたしは自分の立場を選択するということです。当然、相手にとっては(エゴ的には)気持ちいいかもしれない。わたしにとっても、許容可能な自己抑圧・自虐と引き換えに、自己防衛が図れる、相手との一見良好な関係が維持できる、という点で安心感が生じる。

しかし、これはわたしのエゴゆえの自己防衛と同時に、相手のエゴの増長に加担するということでもある。相手のエゴが増長すれば、わたしが強いられる自己抑圧、自虐は大きくなってきて、それが許容限度を超えた時、わたしは突如、その関係性を放棄せざるを得なくなってしまう。放り出した後に自分を振り返ってようやく、付き合う必要がないのに付き合い続けてしまったゆえの双方の犠牲の大きさに気づくのです。相手のエゴも増長していたかもしれないが、一見良好な人間関係の維持という名目の陰で、自己防衛というわたしのエゴも増長していたのです。こうした経緯で、一見、良好に推移してきた人間関係を、何度放り出してきたことか(苦笑)。けれどそれらは必要な関係破綻だったと思います。そうしなければわたしは自分のやっていたことに気づけなかった。また、相手のエゴに加担するのではなく、相手のなかに無辜を観る、光を観る、ということの本当の意味を理解する端緒すらつかめないでいたと思います。お互いの無辜を観るためにも、「特別な関係」というのは最終的に常に破綻するのだと思います

本質的には自己防衛のために、自己犠牲と引き換えに相手のエゴを吸収して、関係性の維持を図る、という仕組みは、より微妙なかたちでわたしのなかでまだ存続しています。自己犠牲の内容がより微妙さを帯びてくるせいで、気づきにくいのです。

エゴというのは分離感です。相手の立場を考えるという名目で、相手のエゴを吸収する時、相手の分離感にまで擬似的な共感を示す羽目に陥ってしまう。ひらたくいうと、共感を示した相手にとっての敵は、無関係な第三者のわたしにとっても敵になってしまう。わたしの目の前の相手の立場に共感を示す結果、その相手が敵視している他の誰か、その相手がストレスや葛藤を抱えている他の誰かへのスタンスを、何の恨みも葛藤もないわたしまでが抱えて、加担することになってしまう。それも全く無自覚のうちに。このケースだと、わたしの目の前の人は、別にわたしに犠牲を強いているようには見えない。けれど、わたしはもともと必要のなかった相手の分離感を背負い込むことで、自分の無辜を犠牲にし、そして相手の無辜を観るよりも、相手の分離感に加担して、自分が会ったこともない人の批判までしてしまうことにもなる。

蒼い本の16章1節には、「真の共感」という章がありますが、共感というものについてここらではっきりさせる必要を感じました。相手の立場を考える、という名目で、相手のエゴを吸収して、そうやって自己防衛を図りつつ、一見良好な関係の維持を試みてしまう、そのことで自分にも相手にも、そしてすべての兄弟にも無辜を観るという機会を犠牲にしてしまう、そういう癖を一切放棄する決意をしないといけない。

ふと思うのです。聖霊に知覚を訂正してもらい続けると、最終的には、聖霊がわたしを見てくれていたような姿勢で、わたしはひとを、兄弟を観ることになる。つまり、まるで聖霊のように生きることになるわけです。聖霊が、わたしとの関係維持が危ぶまれるからといって、わたしの無辜を観ることをやめて、わたしのエゴに加担して関係を見かけだけ維持しようなんてするわけがありません。当然、わたしもそんな聖霊のスタンスを見習うわけです。でもこれは実際に適用するとなると、ちょっと今のわたしには冒険です。それはどんな立場の相手であれ、そうするということなのですから。

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