知的理解の限界

(動画リスト59番 Q & A: This World Was Over Long Ago  https://www.youtube.com/watch?v=Xoazqr_M8yY&list=UUlXYpldD7anfL-Kvm9N4RGg&index=59 公式英語字幕あり)

「どうしてわたしたちはこんなこと(エゴ・分離)を始めてしまったのでしょうか? 誰が始めたのでしょうか?」

動画の7分22秒あたりから、白髪でヒゲのおじさまが質問します。これと同じ質問にワプニックさんがどう答えるかは、JACIMで日本語字幕付きの動画(http://www.jacim.com/jcm/?p=796)にも紹介されていますが、ワプニックさんの回答はどちらにおいても基本的に同じです。その回答に対してヒゲのおじさまは食い下がります。

「分離は起こってない、ということはわかりました。起こっていないということは、つまり幻想だということですね。しかし、幻想が存在している、ということは事実だ。とするなら、質問を少し修正させてもらいますと、なぜ決して起こらなかった幻想が、存在してしまっているのでしょうか?」

ワプニックさんは苦笑いしながら「わたしに回答を修正させないでください」と冗談ぽく返答します。どうもこのヒゲのおじさまとワプニックさんは以前から知り合いらしく、このおじさまのキャラクターもよく知っているうえでの返答のようです。会場からも笑いが漏れ聞こえてくるのは、おそらく講座のなかで繰り返し回答されたテーマについて、このヒゲのおじさまが性懲りもなく同じ質問を投げかけているからかもしれません。

このおじさまの質問は、ワプニックさんの回答の真意を理解していないとはいえ、論理的には筋が通っているように見えます。論理的に筋の通った質問に論理的な解答が与えられたなら、すがすがしい納得とともに何らかの解決に着地できる、このおじさまは自覚的にか無自覚的にかそう信じているのでしょう。ワプニックさんの回答のなかにある通り、この「なぜ分離は起こったのか?」という質問にはそもそも「分離が起こっていることをわたしは信じている」という大前提が潜んでいて、そのことに質問者は自覚がない。実際に自覚できるには相当深く癒される必要もあるのでしょう。ワプニックさんは加えて「形而上学に足を取られて、歩みを遅らせないでください」という趣旨の蒼い本におけるイエスの言葉を引用しながら、「この質問に対して、知的に満足できる回答というのはないのです」とも述べます。蒼い本は神を求め、聖霊を信頼し、ゆるしを進め、平安を達成するための本ですが、このヒゲのおじさまは神や平安を求めているというよりは、「知的に満足できる」ことを求めているようにも思えます。実はこれがクセモノで、「知的に満足できる」という動機の背後には、エゴを温存すること、自分≒エゴがコントローラーであることを維持する、という習慣的で無自覚な衝動があるかもしれません。蒼い本の内容について真面目に考え、疑問を提起しているようでいて、実際は、エゴの強化、温存を遂行してしまう習性というのは当人が自覚できないほど根深いところに刻まれているものです。

わたしのコアGuiltとして「忠誠・隷属」Guiltと「わかる」Guiltがあって、どちらも拭い難くてしつこいと以前書きました。「わかる」Guiltとは、知的に理解、把握することに強い執着、自負があり、その能力が自分のセルフイメージを大きく占めていて、コントロール感覚をもたらしているということです。知的に「わかる」ことじたいはニュートラルなものですが、それがGuiltとして機能するということは、Sin由来の無価値・無力・無能感をこの「わかる」Guiltで抑圧、投影してしまうということです。ですから「わかる」能力を手放してしまうと、途端に無価値感や無能感がせりあがってくる恐怖、コントロールを失ってしまう危惧感が生じます。「わかる」ことがGuiltとして機能していない人なら、このような動揺は起こらず、自分の能力の一部として意識するだけで済むでしょう。

このような「わかる」Guiltを抱えた人間にとって、蒼い本を正確に理解、把握することに執着が生じるのは自然な成り行きですが、聖霊がわたしを導こうとしたのは、知的に蒼い本を徹底して理解、把握させることではなく、この「わかる」Guiltの背後にある無価値感、無力感を表面化させるために、この「わかる」ことへの執着を手放させる方向でした。そして、このことはいわゆる「特別な関係」を通じて段階的に、つまり何人もの人との関わりを通じて、進展してきました。

知的な把握、理解に自負があると、議論や論争にのめり込みがちですし、誰かに質問してこられるとわりと積極的に答えようとしてしまいます。相手が何かを理解しようとしているなら、それを手助けしたいと善意のつもりでそう思ってしまうからです。ここに落とし穴があって、「わかる」Guiltの人間は、Sin由来の無価値感、無能感を「わかる」ことで抑圧しているために、質問してくる人に無意識にその無価値感、無能感を投影してしまいます。そして、相手に教えて、理解させることで、自分の無価値感が慰撫される感覚に耽ってしまう。自分が「わかっている人間」として肯定され、承認され、更には優越の感覚にすら浸ってしまう。

この特別な関係にはもうひとつ罠があります。「わかる」Guiltを抱えるわたしの目には、質問者は熱心に「わかろう」としている人に見えてしまいます。同じGuiltを共有していると思い込んで、親近感を感じてしまうのです。「わかる」ことを大切にしているので、同じく「わかろう」としている人には手を差し伸べたくなってしまう。しかし、目の前にやってきた質問者が自分と同じGuiltを抱えているとは限らない、ここが盲点です。例えば、正解を教えてくれそうな人に頻繁に質問し続ける関係をつくることで、その関わりによって不安を緩和したいだけであったり、相手に関わってもらうことで寂しさをまぎらわせたいとか、相手に教えてもらえば自分で考えずに済むし、正解を教えてもらえたら自分で考えるより安心だし責任をとらなくていいから、という理由だったりもします。有名な教師のファンや信者になりがちな人には、立派な先生に付き従っているわたしは安泰だし、先生に認めてもらっている自分は他のひとたちよりも優れていて立派だ、だから新たに人に布教し、教導する資格もある、などと思い込める信者心理みたいなものもあるようです。ここまでくるともうわたしの想像を超えていますが、20年も新興宗教に傾倒していた人が脱会のために自分を脱洗脳していくプロセスで、自分のなかに巣食っていた心理を述懐しているブログで、そのような発言を見かけたので、信者心理というのは確実にあるみたいです。

わたしは「わかる」Guiltゆえに無価値感を質問者に投影し、相手に「わからせる」ことに熱心に執着しており、そして、質問者は質問者で自分の不安や寂しさや自己不信ゆえに、質問し続ける関係を密にすることじたいに執着している。双方が、関係性のなかで見事に無価値感や不安、寂しさを投影しあい、慰撫しあってしまう。しかも、これが蒼い本についての質疑応答で発生するのだから皮肉なものです。この関係には共依存的な執着、中毒性があるだけで、双方とも真の癒しに至るどころか、エゴを相互補完・補強してしまうわけです。わたしは「わかる」ことを手放すことで無価値感に直面しなければ癒しは始まらないし、質問者は質問者で他人に執着することを手放さなければ自分の不安や寂しさ、無責任さに直面することができない。お互いに投影しているSin由来の感情エネルギーに気づいて、それを回収して癒しを成立させなければ、蒼い本をネタに「特別な関係」が継続してしまうという悲喜劇が生じ得るのです。

わたしは「わかる」ことに非常に価値と自負、敬意をおいているせいで、「わかる」ことをわかること以外の動機で弄ぶかに見える人には、一転して猛烈な嫌悪感、侮蔑、非難感情を感じてしまいます。これは抗し難い憤りなのです。「わかる」ことに熱心だと思い込んでいた質問者が、たんに寂しさや不安や依存心、退屈をまぎらわすために知識をネタに、ひとと関わることじたいに執着していたことが判明した時には、完全に裏切られたと思うと同時に、知への冒涜だ!ともうそれ以上相手と関わり続ける気が一切起こらなくなってしまいます。「冒涜」という言葉に象徴されていますが、この言葉はよく神に対して使われる言葉です(例:神への冒涜だ!)。わたしにとって「わかる」ことが神の座を占めているせいで、こんな言葉が自然に出てきてしまうのだなと、自分でも呆れてしまいます。「わかる」Guiltへの同一化っぷりにはいまだに手を焼いていて、忘れた頃にふっと取り込まれてしまうので、いまだに注意していないとなりません。ふぅ。

ところで、形而上学に拘泥することのデメリットについては書きましたが、決して蒼い本を丁寧に読まなくてもいいということではありません。わたしは「わかる」Guiltがあったせいで、そこに落とし穴があったというだけです。ひとによっては、テキストを丁寧に読まずに済ますことで、まんまと延命するエゴというのもあるでしょう。蒼い本の学びについては、一般解というのはなくて、誰かにとっての正解は、誰かにとっての誤答だったりするので、聖霊との関係を通して、自らのテーマを各々照らしだしてもらうしかないのだと思います。

広告