知覚

たとえば、誰かが不快な振る舞いをしていたとする。その時「不快さ」は、そのような振る舞いをしたその人間の属性として知覚される。その人間が不快だ、その人間によって不快な気分にさせられた、そのように知覚するのが通常だ。不快さの原因が対象、相手の属性として感じられる。しかし、蒼い本によれば、投影によって知覚が生じる、とある。これは普段の感覚でいうと、え、逆だろう?と思ってしまうところだ。誰かが不快な振る舞いをしている時、不快だと感じたその捉え方の真の原因は自分の側にある、とそう言っているからだ。この言い方は、自責的な人間に対しては危うい響きをもっていて、逆に罪悪感、自責感を深めることもあるが、その件はここでは触れない。ともかくも、投影によって知覚が生じる、ということは、ゆるしの実践が積み重なるにつれて、その意味するところの凄みがどんどん大きくなってくるのである。

ここのところ、中東やアフリカで起こった戦争、地域紛争にまつわる虐殺をテーマにした映画を何本も観ている。昨年末にも、血なまぐさい映画を何本か観たけれど、あの時のテーマは、組織への忠誠、組織への責任ゆえに手を染めざるを得なくなった理不尽な行い、その葛藤についてだった。それから1年ほど経って、また血なまぐさい映画である。昔は映画も好きでよく観たけれど、近頃、2時間映画を見続けることじたいが苦痛で、DVDで細切れにしてやっと全部観終われるという具合なので、かなりダメな映画の見方なのだけれど、それでも導かれてというか、あるテーマに沿って映画を物色したくなる時がある。今回のテーマは、ひたすら理不尽な虐殺、殺害について。気の重くなるような社会派作品を立て続けに観る趣味など普段ないのだけれど、明らかにゆるしと関連して何かを見極める必要があるらしい。

この映画は実話を元に制作されたもの。イスラムの過激派テロリストがアメリカ軍の車両を待ち伏せして爆破させ死傷者が出たところ、生き残った兵士がテロリストへの反撃のために近隣の住宅を捜索する過程で、なんの関係もなかった一般住民を無差別に虐殺してしまうという出来事である。ドキュメンタリータッチの撮影手法で、米軍兵士、テロリスト、一般住民、各視点での日常生活が前半で描かれ、車両爆破という出来事へとその3つの視点が収束していき、虐殺が起こる。妙に生生しい映像だった。そして、テロにはなんの関わりもない一般住民が無差別に銃殺されていくさまはショッキングだった。自分となんら変わらない生活者として一般住民が描かれていたせいで、全然人ごとに感じられなかった。

こちらはレバノン内戦を題材にしているけれど、一応フィクションらしい。ただ、内戦の混乱のなかではこれと似たようなことは普通に起こっていてもおかしくない、そんなお話だった。復讐、殺戮の応酬がどこにも行き着かない、それを虚構のなかでどう昇華するか、が作品の眼目かもしれないが、ミステリー仕立てのこの映画は、ギリシア悲劇を彷彿させる衝撃的な結末を迎える。自然光で撮影された中東の渇いた風景が印象的な映画だった。

戦闘に参加している兵士でもない、一般生活者が女子供含めて不意に虐殺されるシーンというのはショッキングである。しかもそれは実際に起こっていることなのだ。この「ショッキングさ」「まがまがしさ」「痛ましさ」「恐ろしさ」というのはどこから来ているのだろう、・・とここで最初の、投影によって知覚が生じる、という話に戻る。地球上で今もこういった事態が進行しているのはどこかで知っているのに、それをなんとなく見ないで済ませよう、目をそらしたままでおこう、という回避的な動機がいつのまにか働いていたと思う。もちろん日本国内だって、戦乱ではないものの、日々、理不尽なことは起こっている。そういったものをまともに直視した時に、臓腑に突き刺さる衝撃というものを感じないでおくために、無意識のうちに目をそらしてしまう。けれどいまのわたしは、もう目を背けずに、その事実に無防備にこころを開き、その衝撃、痛みを受けとめ、聖霊にゆだね、祈る必要があるようだ。

『投影が知覚を作り出す。あなたに見えている世界は、あなた自身がそこに与えたものであり、それ以上のものではない。しかし、それ以上ではないとはいえ、それ以下でもない。したがって、あなたにとって、それは重要である。それはあなたの心の状態を証しするものであり、内的状況の外的映像である。人はその心に思うごとく知覚する。だから、世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。知覚は結果であって、原因ではない。だからこそ、奇跡における難しさの序列というものは無意味なのである。心眼(ヴィジョン)で見る一切は癒やされており、神聖である。心眼(ヴィジョン)を通さずに知覚されるものは何も意味しない。そして意味がないところには、混沌がある。

劫罰とはあなたが自分に下した裁きであり、これをあなたは世界に投影する。劫罰を受けるべきものとして世界を見るなら、あなたの目に映るのは、神の子を傷つけるために自分がしたことだけである。あなたが災厄や破局を見ているなら、あなたは神の子を十字架につけようとしたのである。あなたに聖性と希望が見えているなら、あなたは神の子を自由にしようとする神の意志とつながったのである。これら二つの決断の間に別の選択肢はない。そしてあなたは自分が下した選択を証しするものを見ることになり、そのことから自分がどちらを選択したかを認識することを学ぶ。あなたに見えている世界は、どれだけの喜びをあなたが自分の中に見て、自分のものとして受け入れることを自分に容認したかを、あなたに示しているにすぎない。そして、これこそが世界の意味であるのなら、世界に喜びを与える力はあなたの中にあるはずである。(奇跡講座 T-21.in.1. )』

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