求めること≒導かれること

ひとをいざなうのは、方法論だろうか。自らの実感を振り返ってみても、全くそうではない。わたしはただ幸せでいたかっただけ、葛藤のないすっきりした気持ちでいたかっただけ、平安でいたかっただけだ。わたしを導いてきたのは、しあわせ、すっきりした気分、平安だ。試行錯誤のなかでたどり着いたなにかしらの方法論によって、以前より少しでも平安な気持ちになれたなら、その時採用した方法論は正しかった、と思うもの。けれど、わたしを導いてきたのは、方法論ではなく、平安の希求であり、そのかすかな手応えだ。その手応えをたぐりよせる過程でつかんだ「コツ」のようなものが、方法論として言語化できることもある。方法論を明確にすることは、自らたどりついた平安を失わないでいようとするための、衝動的に作成してしまう備忘録のようなものだ。自分自身にとっては有効な備忘録ではある。けれどつい、方法論のほうが平安へと導いてくれたと錯覚してしまう。そう錯覚する時、その方法論はほかのひとにとっても有効な、一般性のある公式のようなものだと早合点して、それを広めようと思ったりもする。その暫定的な方法論に依拠して「あのひとはわかってない」「あのひとの言っていることは間違ってる」と、ひとを裁くことすら起こる。

蒼い本の文章は大半において抽象的で、決して読みやすく書かれてはいない。がんばって読んだらわかる本ではなく、わからないながらも実践するなかで、ある日わかった日に読めるようになる、そういう本だ。読んだらわかるのではなく、わかったら読める。なんて高飛車な本だ(笑)。ひとはわかると安心するものだから、やたらとわかりたがるし、腑に落ちたがる。だから、ほんとはわかってなくても、わかったことにしたがるし、腑に落ちたことにしてしまう。わからない、ということにとどまるのは、実は、訓練が必要なことだ。わからないのは不安で苦痛で、劣等感を刺激したりもするからだ。また、わからないことにとどまるということは、自分が少なくともどこまではわかっているのかを明確に自覚していることでもある。ここには正直な自己客観視が必要だ。無駄に難解にする必要はないけれど、一見「わかりやすい」ことは、必ずしもほんとうにわかることにはつながらない。

確かに蒼い本は、特にワークブックなどは方法論の体裁を取っているかに見える。けれど、上でも述べたように方法論が平安へと導くのではなく、平安の希求が方法論を生成することにつながる。平安への希求が蒼い本を有効な方法論として機能させるのである。平安の希求の程度、態様は個々人に固有の段階、ペースがある。蒼い本が抽象的な体裁なのは、具体的な教えは一般性をもたないからだと思う。エゴは、分離する、という目的においては同じだが、個人個人として表れるエゴのありさまは、千差万別で、一般化はもともと不可能なもので、一般性をもたせようと思ったら、必然的に記述は抽象化してしまうのである。この一般化の不可能さをどうやってクリアしているかというと、蒼い本においてそれは「聖霊」である。完全にオーダーメイド対応できる家庭教師が、個々人の具体的なエゴのありように対処します、ということになっている。その聖霊じたい、当初は捉えどころがないように思えるのだけれど、平安の希求に導かれながら、聖霊を模索することそれじたいが、蒼い本の実践の一部でもあったのだと、あとでわかることになる。実際、蒼い本はエゴの詳細な分析を書いているように見えて、肝心なところにくると、聖霊に頼りなさいとしか書いていない本だ。肝心なところは書いてない本なのである。なんて本だ、まったく(笑)。

平安の希求には、膨大な段階があるように思える。明日の食事もままならない人にとっての平安は、お金が手に入ること、食事が確保されることだろうし、理想のパートナーがいれば幸せになれると思っている人は、それが平安の希求だろう。平安の希求の実態は、個人個人で様々で、個々に独自のペースで進化、成熟をとげ、最終的に、絶対的な平安の希求に至るものなのかもしれない。神を求めるなんて抽象的な願望をよもや自分が抱くとは思っていなかったけれど、いつのまにかこんなところに流されてきてしまった。それも結局、その時々での平安の希求をたぐりよせてきただけのこと。平安の希求と書いてきたけれど、蒼い本のなかでの別の言い方をすれば、Call for Love である。蒼い本を学んでいるいないに関わらず、ひとは結局、絶対的な愛を求め、絶対的な愛への希求に導かれているんだと思う。それがどんなものかもわからないままそんなものを求めることができるのだから、実は絶対的な愛の記憶のようなものが自分の内にひっそり灯っているということなのだと思う。それを「聖霊」と呼んでもそう大きく外れてはいないだろうから、求めることと導かれていることは、実質、コインの裏表のような関係かもしれない。

広告