別離

叔父の葬儀に参列した。疎遠で、そんなに親しみを感じなかった人なので、正直、出席しないで済ませられたらと思うくらいだったけれど、一応、親族なのでそういうわけにもいかない。こういう機会でもないと会うことのない親族が集まるのだが、めったに会わないせいで、時々会うごとに、がくんがくんとみんな老けていく感じがするので、わたしもきっとそうなのだろう。

棺にみんなが花を手向けていく段になって、すすり泣く声もちらほら聞こえてくる。お葬式で泣いたのは小学生のとき、親戚のお兄ちゃんが若くして亡くなった時の一度きりで、それ以降は祖父母が亡くなっても涙を流すことはなかった。それなのに、出席することすら気の進まなかった叔父の葬式で、なぜか自分の目から涙がこぼれていた。叔父の死を悼んで泣いてるわけでないのは自分でもわかった。どちらかというと出席者の悲しみに共振しているというか、ありていに言えばもらい泣きという様子なのだが、近頃涙腺がゆるくなったとはいえ、元々もらい泣きするようなタイプでもなかったので、自分でも当惑して、奇妙な感じがしていた。

蒼い本の実践で、祈ることが身についてきたせいか、ああいう場でも自然に手を合わせて祈る、という姿勢がしっくりくるようになって、涙を流して、神妙に祈っているものだから、はたからするとものすごく悲しんでいる人に見えたかもしれないが、わたしのなかでは微妙にポイントがずれていた。

喪主の側で、故人の妻、子や孫たちが並んでいるのを眺めながら、生まれて、子を作り、孫ができ、そして死んでいくという、この地上で延々繰り返されるプロセスのシンプルさを静かに感じ入っていた。そのプロセスの、葬儀という1シーンを切り取り、喪失、別離に伴う悲しみが場を覆っている。特定の誰かが亡くなったことの悲しみというより、反復される、その場じたいに付帯する悲しみに触れて、自分の目から涙が流れるような、そんな感じだった。一般的な悲しみ、とでもいうような。

参列者が棺のまわりに集う映像、その映像の一部としての自分、それらすべてが夢であり、幻想だという蒼い本の教えを同時に思い浮かべていた。棺をのぞきこむ故人の家族の姿に別離の象徴を見ていたけれど、しかし、その別離の悲しみすら、神からの分離に伴う感情であり、しかも、それはわたしという個、その幻想の個に伴う知覚、投影なのだった。別離が幻想であり、究極的には癒されるものだ、という身に染みついてしまった理解が、目の前に展開される悲しみの光景から、その悲しみのリアリティをゆっくりと脱色していくような、そんな感覚にもとらわれた。

不思議なお葬式だった。
それと叔父さん、お疲れ様でした。

(追記)

すこし面白かったこと。つい最近、おなじく蒼い本を実践している友人がアルバイトを始めたのですが、それが葬儀会社だったのです。当然、聖霊にたずねて決めたバイト先なのですが、今回、叔父の葬儀を請け負った会社は友人がバイトを始めた会社と同じグループだったので、もしかしてとは思いましたが、広いエリアに拠点などいくつもあるのでかぶることはないだろうと思っていました。たしかに、叔父の葬儀のあった場所は友人の勤務地ではなかったのですが、業務管轄は同じ区域だったらしく、友人が初めて任されて活けた花が、実はわたしの叔父の葬儀に捧げられていたそうなのです(驚)。はからずも、蒼い本つながりの友人に叔父の葬儀でお世話になってしまいました(笑)。そんなところで接点が生じるか!?っていう奇遇さだったのですが、興味深かったので追記しておきます。もしかしたら、聖霊に従った行動が軌道に乗ると「マジで!?」みたいなことが頻発してくるのかな、なんて思っています。すこし楽しみです(笑)。

広告