ごく個人的な関心

お盆は終戦記念日と重なるので、毎年、ニュースや特別番組で関連情報が流れます。そして15日を過ぎた途端、何事もなかったように関連情報が消える。今年はなぜか戦争関連の本をお盆に一冊読んでみました。『戦争の日本近現代史』という本です(www.amazon.co.jp/dp/4061495992/)。同じ著者の加藤陽子さんの手によるもので『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』という本もあって、以前、たしか糸井重里さんだったかが紹介していたような記憶があります。アマゾンのレビューも多いので、戦争関連のものにしてはよく売れた本なのかもしれません。

20代の頃の一時期、先の日本の戦争に異様に関心をもったことがありました。「どうして負けてしまうような戦争に日本は突入していかねばならなかったのだろう」といった問題意識だったと思います。それ以前は戦争のことなど教科書で習う通りいっぺんのことしか知らず、遠い昔の話にすぎませんでした。けれど、異様な関心が頭をもたげてから、文献を漁ってみると、漠然とした戦争のイメージが次々と塗り替えられていく思いがしました。現役の軍人だった人の書物もいくらか読んだし、わざわざ従軍日誌まで紐解いたこともありました。そこには戦争の生々しい記録がありました。生々しいというのは、つまり日常として生きられた戦争ということであり、淡々として、こまごまとした記録ということです。その分リアリティがあり、当時の空気感が立ち上がって、自分が生きる日常と地続きの現実だったのだという感慨が立ち上がってきたことを思い出します。

軍人というのは粗野なイメージが漠然とありましたが、軍事参謀ともなると怜悧な人たちだったというのが残された文章じたいから伝わってきました。瀬島龍三さんという方が書いた「大東亜戦争の実相」という本は、その内容もさることながら、この人はとにかくめちゃくちゃ頭がいい人なんだわ、という印象が文章じたいから伝わってくる、そんな本でした。実際、瀬島さんは陸軍大学校を首席で卒業した当時のスーパーエリートで、大きな作戦の参謀を担当し、戦後は、繊維を扱う一商社だった伊藤忠商事を総合商社に育て上げ、中曽根首相のブレーンを務めたりと、一貫して活躍し続けて影響力の大きな人でしたが、その分、毀誉褒貶の激しい人でもありました。晩年は芸能人の鶴瓶さんとナンチャンのテレビ番組に出ておられた記憶もあり、まさに時代の証人という感じでした。

20代当時、別に戦史マニアや軍事オタクになりたかったわけではなく、ひととおり気の済むまで文献を漁った後、当初の「どうしてあの戦争に・・・」という問題意識は別に解決したわけでもないのに「色々あったんだな、あの戦争・・」という、漠然とした結論に落ち着いた気がします。異様な関心は過ぎ去っていきました。でもいまになってわかるのですが、当時のわたしに、こっぴどく敗けた過去の戦争へと関心を向けさせることなった真の動機というのは、わたしのパーソナリティ特有のSinとGuiltから来ていたのです(やっと蒼い本の話題になりました(笑))。エニアグラムとからめてこのブログで書いたこともありますが、わたしはエニアグラム6番の「忠誠」という特徴をもっています。蒼い本の言葉でいえば、忠誠あるいは服従という「Guilt」であり、表・裏Guiltという内訳をもって明らかになってきたものです。このGuiltをもっているかぎり、仮に、組織が必ずしも正しい方向性をもっていない時でも、わたしは組織のために尽くしてしまう、自分自身の判断ができないまま組織に積極的に加担してしまう、そういう性質が自分にあり、それを危惧しているところが無意識のうちにあったのだと思います。まして国家総動員の戦争ともなれば、別にそんな心性をもっていなくても皆ひきずられるわけですが。

蒼い本の実践によって、この根深い忠誠・服従のGuiltの解除もかなり進んできたかなという時に、最初に紹介した加藤陽子さんの本を読んでみて、自分が20代の時に感じた戦争への印象がずっとニュートラルになっているのがわかりました。「どうしてあんな戦争に飛び込んでいったのだろう」という、SinとGuiltゆえに多大に感情移入を伴った問題意識は後退し、自分が生まれ落ちた国がたどった歴史として淡々と見ている感じがします。もちろん、現在の外交関係にもあの戦争は影を落としているし、戦争を直接体験した方々はまだまだご存命なわけで、完全に終わった話ではありませんが。

どうしても敗けた戦争、太平洋戦争だけをクローズアップしがちですが、「どうしてあんな戦争に・・・」という疑問を追いかけていくと、結局、ペリー来航以後、明治維新からの新しい日本の体制構築から見ていく必要が出てきますし、その当時の世界情勢、列強の植民地支配の拡大と無関係で論じることもできません。いや降参(1853)ペリーの黒船、と覚えたものですが、それから1945年の敗戦まで100年のスパンで見てようやく、敗戦のこともまた「あぁ、がんばったけど、残念だったな、仕方なかったかもな・・」という感慨に落ち着けたりします。実際、鎖国していた国が植民地化もされずに、わずか50年ほどで欧米列強と肩を並べるような国威をもつなんて、よく考えればすごい話です。1894年の日清戦争から始まって、日露戦争、第1次世界対戦への参戦、満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと、ほとんど10年おきに戦争している国だったのです。戦闘民族と言っても過言ではない(笑)。しかも、太平洋戦争で敗戦するまでは、大方、勝利を収めて権益を拡大し続けてもいたわけで、現代に至っても隣国が警戒するのは無理ないかもしれません(しかも、コテンパンに叩きのめされたと思ったら、戦後30年もしないうちに世界第2位のGNP(国民総生産)を達成してしまうし、やっぱり隣にいると怖い国かもしれない)。維新以降の100年、日本という国の体制は軍隊、戦争と切ってもきれない関係であり、軍事行動が国の経済政策の大きな車輪のようになっていたと言えるでしょう。軍部の発言力が100年かけて抑えきれないほど大きくなったことは、そのことを国民も100年かけて受けいれ支持する土壌があったわけで、まるっきり被害者ヅラして軍部が勝手に独走したとも言えないわけです。以上、長々と『戦争の日本近現代史』の受け売りじみた記述をしてしまいましたが、この本のモチーフは、国民が戦争を受け入れていくプロセスがどのように進展していったか、という切り口で、それを明治維新以降のほぼ100年近いプロセスとして説き起こしていて、とても興味深い本でした。

蒼い本の見方をすれば、これらの壮大な歴史も最初から決まっているエゴのシナリオで、夢から覚めずにエゴで生きるかぎり、こういった興亡の物語に不可避的に巻き込まれるのだ、となるのかもしれません。蒼い本の23章2節9段落目からを読むと、これは戦争を推し進める心の仕組みそのものではないかとも思いました。エゴと戦争は不可分なので、地球上から戦争が無くなったことがないのかもしれませんし、今後も当分そうかもしれません。

今回、加藤さんの本を読んで、わたしの中に生じたのは「あの戦争はどうにかならなかったのか」という20代の時に抱いた問題意識ではなく、みんな必死でがんばって、知恵を絞って懸命に生きて、それでもなお避けがたい、不可抗力な事態に逢着する、それが歴史というものであり、それはこのエゴの夢特有の性質なのだ、という感慨でした。それと同時に、誰も悪くなかった、という感慨もわきました。少なくとも蒼い本の導くように、この夢から覚めれば「罪(Sin)はない」ことがわかるはず、そのことは心慰められる希望にも思えたのでした。

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