我慢!我慢!我慢!

マイティさんと駅のホームで電車を待っていたときのことでした。ホームのある2階につながるエスカレーターの下の方から、興奮した鳥獣のわななくような奇声、叫び声が聞こえてきました。そしてその叫び声の合間に、どすーん、どすーんと物と物がぶつかるようなかなり大きな音がしてくるのです。何事かとエスカレーターをのぞき込むと、小柄な女性がなにやら独り言を大きな声で言ってるのです。その女性の何メートルか後ろのほうを駅員さんがついてきているようです。どすーん、どすーんという音は、癇癪を起こしたその女性がエスカレーターの側壁を蹴りつけているからのようでした。

女性がエスカレーターを上がってくるので、その叫び声も近づいてくるのですが、その声はとうとうわたしとマイティさんのすぐ後ろまでやってきたのです。電車待ちをしていたわたしたちのすぐ後ろにその女性が並んでしまったのです。すこし怯みました。すぐ後ろにいる女性の話す言葉はいまやはっきり聞き取れます。「我慢!我慢!我慢!我慢!、なんでオレばっかり我慢せないかんのやっ!!」と泣き叫んでいます。女性なのですが自分のことをオレと言っています。年は35歳ぐらいでしょうか。やつれた感じがします。駅員さんがそれ以上騒がれるとほかのお客さんの迷惑になるので、警察を呼ばなければなりませんよ、とかなり困った様子で、ソフトに諌めているのですが、その女性のほうは「また我慢かっ!!」と諌められると余計に興奮して、声が大きくなってしまいます。

蒼い本を実践する者としては、眼前にやってきてしまった兄弟のことを、降って湧いた厄介事のように扱うわけにもいかず、この女性を見つめながら、聖霊にどうすればいいのか尋ねていました。が、特にかんばしい回答が聖霊から感じられることもなく、ただひたすら「我慢!我慢!我慢!」と強迫的な思考に飲まれてオーバーヒートしてしまっているその女性に、わたしはただ「そんなに我慢しなくていいんだよ」と、その言葉が適切なのかどうかもわからないまま、声をかけていました。うつむき加減で呻いていたその女性は、わたしの言葉を聞いてふと顔をあげ、「そんなことを言ってくれるのは他人の親だけだ。自分の親はひたすら我慢しろというばかりだ・・・」と、すこし落ち着きを取り戻しながら泣いて話してくれます。まるっきり話が通じないわけではないようです。ちなみに、わたしはひとの親ではないわけですが(苦笑)。どうしてそんなに我慢しないといけないの?と尋ねると、「だって、我慢しなければ生きていけない・・・」と泣き崩れます。どうやら我慢というのは、仕事のことを言っているようです。そうこうしているうちに、電車がやってきました。わたしとマイティさんは電車に乗り込み、当然、女性も電車に乗り込みます。件の女性は、職場に向かうような様子にも見えましたが、あの状態ではとても仕事が務まるようには思えません。そのまま放置しておけない駅員さんも乗り込みます。ひたすら聖霊にたずねていましたが、その時点でそれ以上、わたしは介入しませんでした。十全に聖霊の声を聞いての態度選択だったのかどうかは、正直、確信がありません。

たまたま居合わせただけなのに、取り乱す他人に関わる義理などないと、自分を正当化することもできますが、蒼い本の教師用マニュアル、「教えるための段階とは何だろうか」には以下のような記述があります。

『だから、その計画は、神の教師の一人ひとりがどこの誰と出会うかという極めて具体的なことまで含んでいる。救いには偶然の出来事など一つもない。出会うことになっている者たちは出会う、一緒に居ることで神聖な関係になる見込みがあるのだから。二人は互いに出会う用意ができている。教えるということは、その最も単純な段階においては、まったく表面上だけのことのように見える。それは実に何気ない出会いだと思えることで成っており、たとえば明らかに見知らぬ者どうしがエレベータに「偶然」乗り合わせるとか、ある子供がちゃんと目の前を見ていなくて、「思いがけなく」ある大人にぶつかってしまうとか、二人の学生が「たまたま」一緒に歩いて帰るとか。こうしたことは偶然の出会いではないのである。そのどれもが、教える-学ぶという状況を成立させる可能性をはらんでいる。』

というわけで、駅のホームで出会った叫び声をあげる女性のことを、「たまたま居合わせた」などとは到底言えないわけです(笑)。見かけ上、苦しんでいる人を目の前にして、見かけ上、手助けする行為は、必ずしも、そのひとを救うことにはならないことは何度となく体験してきました。だからなによりもまず、苦しんでいるかに見えるひとを目の前にして、自らが感じていること、つまり自らの知覚をまず聖霊に明け渡し、癒してもらうことから始めなければなりません。件の女性に対して、聖霊からの指示を完全に遂行できたとも思えないし、充分に奇跡を行う者としての役割を果たせたとも思えないのですが、ただひとつ言えるのは、「我慢!我慢!我慢!、生きていくには我慢しなければならない!でもなんで自分ばかりがこんなに我慢しなければならないんだっ!」という痛々しい叫び声は、たしかにわたしが取り組んできた叫びであり、痛みであったのは間違いのない事実です。この世の中、どこか、何かを我慢していない人間はいないでしょう。でも、その我慢がほんとうは何のためなのかよくわからなくなっている人もきっと多いに違いありません。そういう意味では、たくさんの人のこころの声を件の女性は代弁しているようにも思えました。サバイバルの危惧・恐怖≒Sinを、我慢しなければならない≒Guiltで抑圧し克服しようとして生じる強迫神経症的な葛藤というのは、奇声をあげる彼女だけのものではないからです。

今日は結局あの女性に会うためにお出かけしたようなものだね、とあとでマイティさんと話しました。叫び声をあげる彼女が照らしだしてくれた痛みは、明らかにわたしたちの痛みであったし、それは聖霊に明け渡されることを待っている痛みでした。通りすがりの出来事で、あの女性がその後どうしたのかもわかりませんが、わたしたちは自らの痛みを聖霊にゆだね、わたしたちとあの女性の無辜が明らかになるよう、聖霊が奇跡を彼女のもとに届けてくれることを祈りたいと思います。

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